ラファティ重箱の隅


 ラファティを読んだり調べたりしていて気付いたこと、気になったことなどをとりあえず片っ端から書いていこうっていう企画。これまでに更新履歴等、本サイトのあちこちに書き散らしてきたネタも再録しておきます。何かお気づきの点や事実誤認等がございましたら、お知らせ下されば幸いです。なお、入手可能な邦訳作品の解説等で読める有名なエピソード等は割愛させていただき、主にネットや原書、絶版書等で拾ったネタを中心とします。
 ネタの内容で分類していくと訳わからなくなってしまいそうなので、更新履歴と同じように、ネタを記した日付で新しいものほど上にくるように追加していきます。



重箱の中
2/12, 2002 R. A. ラファティのR. A. って?/ 恐るべき子供たちの原題/ 黙示録の乱丁/ 99番目の小部屋の謎
2/18, 2002 出なかった邦訳など
2/22, 2002 ラファティの生没年?
4/26, 2002 パロディ、オマージュなどなど
5/20, 2002 SFセミナー2002: ラファティ追悼部屋企画報告/ラファティ作品と編集者たち
6/30, 2002 スロー・チューズデー・ナイトの三つの種族



6/30, 2002

スロー・チューズデー・ナイトの三つの種族
 短編ベスト3ではスロー・チューズデー・ナイトがダントツの一位を獲得した。26人中7人が投票ってことは、四人にひとりが挙げているという高得票率である。ということで、少し前にスーガク者の河本さんの掲示板に書き込んだ、スロー・チューズデー・ナイトに登場する三つの種族の語源について若干の蘊蓄を。
 本作では、活動時間帯によって三つの種族に分かれた人類が描かれている。原著では、各々Auroreans (Dawners)、Hemerobians (Day-Fly)、Nyctalops (Night Seer)という名称。以下、二種の翻訳での用語と併せてコメントしてみる:壱「スロー・チューズデー・ナイト」(浅倉久志訳・九百人のお祖母さん, 早川)と、弐「火曜日の夜」(吉田誠一訳・年刊SF傑作選6, 創元)。
 まず、早朝に活動するAuroreans =Dawnersは文字通り、"あけぼの"ってことで壱ではオーロラ人(早起き族)、弐では黎明人(オーロレアンとのルビ)。これは解りやすい。
 日中に活動するHemerobians =Day-Flyは昆虫のカゲロウのこと。壱ではヘメロビア人(昼光族)、弐では陽炎人(ヘメロビアンとのルビ)。(これは、蜻蛉との"カゲロウ"違いみたいな気が...)
 本作の主役であり、夜間に活動するNyctalops =Night Seerはちょっと問題がある。本来Nyctalope(Nyctalopsは複数形)とはNyctalopia(夜盲症)に罹患した人を意味する。これでは、Night Seer(夜に視る者)と逆の意味になる。実は、Hemeralopia(昼盲症)との語義の混乱があり、1800年代にはNyctalope は夜間によく視える人(すなわち昼盲症)としばしば誤用されることがあったそうだ。夜を意味する"Nyct-"から、感覚的にNight Seerの意味にとられやすかったのだろうか。語学マニアのラファティのこと、単なる誤用とは考え難い。なにか逆説的な意味も含めてこの言葉を使った、とみるのは深読みだろうか。ちなみに、壱ではニクタロップ人(深夜族)、弐では夜行人(ニクタロプとのルビ)。
 こうしたペダンティックな用語の使い方もラファティ作品を楽しむ要素のひとつと思うが、どうしても翻訳では解りやすさを重視した分、そのあたりの雰囲気が薄れてしまうのは残念である。

5/20, 2002

ラファティ追悼部屋企画報告
 (2002/5/7更新履歴から転載)SFセミナーに初参加しました。いろんな企画を愉しませていただきましたが、今回の一番の目的は林哲矢さんによる合宿企画、"悪魔は死んだ〜ラファティ追悼"の部屋です。牧眞司さんがご披露されたラファティからの手紙は、例の"草の日のガレージセールで買った粘土製の"年代物タイプライターによるもの。コピーからでも、ガタガタの印字とかすれ具合が伝わってきました。柳下毅一郎さんの"ラファティはマジック・リアリズムだ"説には得心。マルケスは計算してるかもしれないが、ラファティは何も考えずに書いていて結果的にそうなったんじゃないかってこと。自伝的作品とされるIn a Green Tree TetralogyはそのままThrough Elegant Eyesに繋がっていき、いずれもラファティの世界観をまんま書いてるだけじゃないかと。そして、大森望さんによる、じゃあ「ぼくはほんとうにあったことを書いているだけ」の北野勇作といっしょだ、という発言がウケをとり、北野勇作は日本のラファティだ、との説も。しかし、北野さんはやっぱり考えて書いているから、全然違うという結論になりました。また、浅暮三文さんはラファティ落語説を唱えられており、確かにラファティのtall taleには、あたま山なんかにみられるシュールにぶっとんだ感覚とも通じるところがあるなあ、と思います。結局、ラファティは自作の構造にどこまで自覚的だったかってことが論点になり、作品の(小説としての)完成度の違いは、編集者によるんじゃないかって説が。牧眞司さんのコメントでは、ラファティはRoger Elwoodが編集者として気に入ってたらしいが、送った作品をそのまま載っけてくれるからだろうとの見解。それで、オービットなんかのラファティ作品の完成度が高い(って言うか、ちゃんとプロットとオチがある)のは、デーモン・ナイトが偉かったんだろうなと、企画が一瞬だけナイト追悼部屋に。(←なってません)
 短編集どろぼう熊の惑星"について、けっこう好き嫌いが別れていたのですが、これは作品に明確なプロットとオチが存在するかどうかってところと関連しているようです。しかし、ラファティの短編については、"九百人のお祖母さん"収録作はむしろ例外的にきっちりと構成された作品が多いわけで、未訳の短編について僕がしたコメントは、"九百人のお祖母さん"収録作を期待する方には残念ながら殆ど残ってないけど、"どろぼう熊の惑星"ラインなら結構いい作品もあるでしょうと。さあ、SFマガジンの追悼特集では、どの作品が訳されるのでしょうか。

ラファティ作品と編集者たち
 さて、ラファティ作品と編集者たちの関係について考えてみる。ラファティの短編の発表の場としては、Galaxy, If, F&SF, Amazing, Asimov's等の雑誌と、オリジナル・アンソロジーという大きく分けて二つ。(リンクを辿ると、各雑誌収録作のリスト/書影がみえます)また、編集者別・アンソロジー収録作リストと、編集者別・雑誌収録作リストを作成してみた。(注:アンソロジーは基本的に初出時のもの。また、雑誌は未入手のもので編集長が不明なものもあり、不完全なリストである。なお、シリーズ・アンソロジーの後ろの()内の年代は、ラファティの作品が収録されている期間であり、シリーズの存続期間とは異なる。)
 追悼部屋で話題となったロジャー・エルウッドデーモン・ナイトだが、エルウッドは'70年代に滅多やたらとアンソロジーを濫発した編集者である。牧眞司さんによれば、ラファティお気に入りの編集者だったそうで、おそらくは送った作品をそのまま載っけてくれるからだろうとのこと。リストをあたってみると、エルウッドの手になるアンソロジー('72-75)で初出の作品が17編。ところが、そのうち邦訳は"意思と壁紙としての世界"一作のみ。一方、ナイトのオービット('67-80)初出は19編で、11作が邦訳されている(追記:'02/8のSFマガジンで"すべての陸地ふたたび溢れいずるとき"が訳され、計12作となった)。ナイトは作品の採用に厳しく、何度も書き直しをさせたり、突っ返したりしていたようで(NW-SF社:ザ・ベスト・フロム・オービット(上)参照)、ラファティも"むかしアラネアで"と"Maybe Jones and the City"が没をくらっている。その理由は、端的に言えば「プロットがない」だそう。やはり、ナイトのOKをもらった作品は、比較的骨格がしっかりとしていて解りやすい構造をしているものが多く、浅倉・伊藤両氏によりピックアップされたのだろうか。私見では、エルウッド収録作にもけっこう良い作品はあると思うのだが、Through Elegant Eyesのシリーズものや、比較的シリアスな作品が多いため、邦訳され難かったんじゃないかと感じる。(あるいは、ネット経由での情報収集ができなかった時代に、多量の玉石混合のオリジナル・アンソロジーに収録されたラファティ作品を十分にフォローするのは困難だった、ということもあろうか)
 シルヴァーバーグのNew Dimention('71-74)収録作は4作だが、ヒューゴー受賞の"素顔のユリーマ"、ネビュラ候補の"空"、"草の日々、藁の日々"と秀作揃いである。
 一方、Roy TorgesonのChrysalis('78-80)には初出5編(いずれも未訳)と、再録"トライ・トゥ・リメンバー"を収録。'70年代末のかなりシュールで強烈な作品が並ぶのは、編者の趣味か、もしくは何でもオーライだったのか。
 ディレイニーのQuark('70-71)には、比較的とっつきやすい傾向の作品と思われる"崖を登る"と"太古の殻にくるまれて"の2編。
 テリー・カーのUniverse('71-82)には7編。"また、石灰岩の島々も"、"どろぼう熊の惑星"に、"行間からはみだすものを読め"を含むアウストロもの3編(追記:'02/8のSFマガジンでもう一作、"知恵熱の季節"が訳された)。他2編の未訳ものも結構出来はいいと思う。
 アイザック・アシモフは、作者当てクイズすなわち作者名を伏せて読者に当ててもらおうってコンセプトのアンソロジーに二作、ミステリ篇(Who Done It?:新・読者への挑戦)とSF篇(Speculations)。SF篇収録の"Great Tom Fool"ではお馴染みの研究所の面々が別名で登場するけど、性格や行動パターンからすぐに判る。残る一作はアシモフが提示した四つの来るべき未来世界のヴィジョンに沿って、シルヴァーバーグ、パンシン、ハリスンが中編を競作したFour Futures収録。アシモフの設定を遙かにぶっちぎっていっているのも、ラファティらしいか。逆に、編者の意図する枠内に収めるのはラファティ向きではないのだろう。
 ラムゼイ・キャンベルはホラー・アンソロジーに二作。"Fog in My Throat"はまだしも、"ファニー・フェイス殺人事件"を渡されてどう感じたのだろうか?(New Terros傑作選にも再録してるんで、結構気に入っていたのかもしれないけど。)
 T・M・ディッシュも二作。環境破壊をテーマとしたRuins of Earthに"世界の蝶番はうめく"を寄せられてどうだったのだろう。コメントに「これはecological catastrophesを描いた作品だ」とあるのが何か無理矢理っぽい。
 雑誌では、H. L. Gold編集長(Galaxy, If: '60-61)との関連作8作(ただし、後半はフレデリック・ポールも編集に関連)は総て短編集に収録。一作を除き邦訳されている。次いで、フレデリック・ポール編集長(Galaxy, If, Worlds of Tomorrow: '61-68)との関連作22作は、"パニの星"を除いて総て短編集に収録されており、未訳も二編しかない。F&SF誌はJoseph W. Ferman編集長とテッド・ホワイト編集者のもと、4作('64-67)。総て短編集収録、邦訳もあり。これらの作品は、いずれも'60年代のわかりやすい作品で、"SF"としてカテゴライズできるものが多い。また、Robert A. W. LowndesはSFデビュー作"氷河来る"収録誌の編集長だったが、計5作で関連('60-68)。総て短編集収録、邦訳あり。Magazine of Horror誌の3作もホラーよりはSF寄りの作品("いなかった男"、"究極の被造物"、"断崖が笑った")といえよう。
 '70年代はEjler JacobssonGalaxy, If: '70-74)関連が11作。うち9作は短編集に収録されている。作風もよりシュールさが増してきているが、まだ解りやすい。F&SF誌ではEdward L. Ferman関連で4作('71-82)。"Thou Whited Wall"など強烈にわけわからなくって、編集によるアオリのコメントも「ラファティの想像力はわれらの誰よりも高く不可思議なところへ到達」と、まあ、どっか別世界にいっちゃったってとこでしょうか。Fantastic誌ではテッド・ホワイト関連で2作 ('70-75)。"寿限無、寿限無"はよしとして、"Old Halloweens on the Guna Slope"も結構強烈(Through Elegant Eyes収録作は後半を書き直して全く別の話になっているが)。
 '80年代では、George H. ScithersAmazing, Asimov's: '81-86)が5編。わりと、とっつきやすい作品ばかりで、邦訳も3編。一方、ガードナー・ドゾアAsimov's: '86)は3編で、未訳の2編はけっこうシュール。同年代でも、編集者によって採用作の傾向が異なるという例か。
 「三本書いて二本売れるくらい」とは、'87のインタビュー(モンスターには日本語が似合う:SFM, '94/19)での言葉。スモール・プレスからの刊行物(特に、'80年代のDrumm Booklet)にはこれらの"売れ残り"が多く含まれているものと思われるが、確かにプロットがなく、オチ(と言うか、結末)も唐突な作品が多い。「レベルを落としながら、同じことをくり返しているだけだと気がついたんだ」(上出のインタビューより)の通り、同じようなネタや展開にもしばしばでっくわす。不採用になるにはそれなりの理由があると納得できる反面、不完全な作品にもラファティらしさは十分に宿っており、少なくともラファティ・ファンには「読まなくても良い作品」はない、というのが僕の見解である。

4/26, 2002

パロディ、オマージュなどなど
 ラファティ・ファンには、作家、翻訳家、漫画家等のプロ率が高い印象を受けるが、実際にその作品内にパロディ、オマージュなど何らかの形でラファティ関連のことが登場するのには、滅多にお目にかからない。気が付いた例を幾つか挙げてみる。
 まずは、有名どころで吾妻ひでおの「不条理日記」。手元に現物がみあたらないのでやや不正確かもしれないが、しっぷーどとー編におばあさん900人とすれちがう、という非常に判りやすいネタがあったはず。とり・みきの「SF大将」でも、やはり九百人のお祖母さんがネタとなっていたが、SFパロディでラファティを扱うとすれば、知名度からもこの作品となってしまうのだろう。
 その他の漫画では、冨樫義博の「レベルE」にディスクン星人のラファティくん、というのが登場する。由来がR. A. ラファティかどうかは不明。
 小説では、雑破業の「雨のちカゼ」(富士見ミステリー文庫)収録の「たからもの」に、宝探しに興じる"なばかり少年探偵団"の一行が巨大な岩につきあたり、「次の岩につづく...とか、書いてあったりしてな」とつぶやく。この作品の読者層に通じるのだろうか、という疑問はさておき、嬉しくなるネタである。
 今のところ、思いつくのはこのくらい。何か、もっと他にこんなのがある、とか情報を求む!

2/22, 2002

ラファティの生没年?
 何年か前から、web上には「ラファティの生没年」が記されている。それは、「1914年11月7日-2001年1月1日」である。僕がこれをみつけたのは2000年夏頃だった。すなわち、未来に設定された没年で、ラファティ自身が語ったとある。出典はここ。最終更新1998年1月の今は無き"Crank!"誌のHP上にあるLaffertyについてのエッセイだ。当サイトのリンクのページでChris Drummによる、と記載していたが読み返してみるとどうも違うようだ。このページ内に署名はないが、おそらくはCrank!誌の編集Bryan Cholfin氏の手になると思われる。当該箇所では、出版社から経歴を尋ねられたときにラファティはしばしばこう答えていたとのこと。このエッセイには1年半前に脳卒中をやった、との記載もある。(ラファティの発作については心臓病説もあるが、本エッセイの原文に"stroke"とあり、これは通常は脳卒中をあらわす単語)これは1994年の出来事と思われるので、エッセイの執筆は95-96年あたりか。以降、nursing home(老人などの看護施設)でアルツハイマーとパーキンソン病の治療を受けている、という記載の後にこの生没年のエピソードがきて、これ以上持ちこたえても驚かないね、と締めている。この「没年」はなんとか持ちこたえたようだが、柳下毅一郎さんの2001年9月28日の日記でショッキングな記載があった。以下に引用させていただくと、「バラードMLで流れていた話題を拾う。R・A・ラファティは現在オクラホマ州の養老院に入っているが、パーキンソン病とアルツハイマーを病み、たまに訪問客があっても相手が誰だかわからない状態だという。ああ、なんたることか。新作を望めないことはわかっていたが。」とのこと。
 生年については、「R. A. ラファティのR. A. って?」の項に記した日時と一致するが、念のため林哲矢さんの秘密のラファティについてのバイオグラフィのページを確認してみた。引用させていただくと、「誕生予定日が聖ラファエルの日であったためRaphaelと名づけられたが、それから14日後に生まれた」とある。典礼歴についてはよく知らなかったのでgoogleでSt. Raphael's dayで検索してみると10月24日らしい。なるほど、これで計算があうようだ。(ただし、林さんによれば11/4説、7/11説もあるらしい)また、名前の由来についてであるが、やはり林さんの記載ではイタリアの大画家由来説(SFマガジン92/4特集解説より)も挙げられている。たしかに、ラファエロ(Raffaello)の英語表記はRaphaelだ。
 生年月日、名前の由来とカタカナ表記、罹患した病名等、なかなか情報を確定するのは難しいようである。web情報を安易に引用するな、とはよくいわれることだが、実際は紙媒体にしてもうかつに信用できない。僕は新たな情報を得ると嬉しくなってしまい、ついつい十分な裏をとらずにすぐアップしてしまう。林さんのようにかなりいろんな文献等を実際にあたって検討する姿勢は見習わねばと自戒する今日この頃。

 上記の文章をアップして一月たたぬ2002年3月18日に、ラファティは本当にこの世を去ってしまった。享年87歳。謹んでご冥福をお祈りいたします。

2/18, 2002

出なかった邦訳など
 有名なところでは、サンリオSF文庫で予告のみでていた短編集"変なことする人"、伊藤典夫訳がある。いわずと知れた"Strange Doings"であり、"つぎの岩につづく"としてハヤカワ文庫SFから'96に出版された。巻末のあとがきによれば、「古くは1967年から翻訳がはじまり、途中十年ほどサンリオSF文庫の刊行予定リストにはいっていたり、種々の事情によって、この全訳ができあがるまでにはずいぶん時間がかかった」とのこと。余談だが、この刊行予定リストってのは巻末についていて、当時も僕らをやきもきとさせたものだが、今見てみるとつくづくサンリオの文庫撤退が残念となる。ロバーツの「内側の機構」(後に「内面の車輪」)、オールディスの「頭の中の裸足」、ライバーの「銀の知識人たち」、コッツウィンクルの「ドクター・ラット」(後に「ねずみ博士」)、キット・リードの「武装キャンプ」などなど。また、1巻のみでたオールディス&ハリスンの「ベストSF」は9巻まで予定されていた。結局サンリオからは悪魔は死んだイースターワインに到着の二長篇が刊行されたが、どちらにも以降のラファティ作品の刊行予定は記されていない。
 短編では、NW-SF社から(上)のみ刊行された「ザ・ベスト・フロム・オービット」。上巻には「町かどの穴」が収録されていたが、下巻は「つぎの岩につづく」が収録予定だった。まあ、作品自体は容易に入手可能なので問題ないと思うが、この作品集は収録作の間に編者のデーモン・ナイトと作者との往復書簡が挿入されているのだ。上巻では、"Maybe Jones and the City"と、"むかしアラネアで"がナイトに没をくらった事実が明かされる。いずれも、作品に十分なプロットがないというのがその理由。"むかしアラネアで"については、「もし男が"蜘蛛の帝王"になっていたら?」との提案も。そして、"Orbit 2"に採用された「町かどの穴」はナイトの絶賛を浴びる。「これぞまさに傑作...読みながら痴呆のごとく笑い転げ、部屋中の人間と犬と子供たちの顰蹙を買いました。素晴らしい作品です。完璧に、首尾一貫して狂っています」(p82)とは、ラファティへならではの大賛辞だろう。この後、ラファティはオービットの看板作家のひとりとなり、後にオービット収録作のみの作品集"Lafferty in Orbit"を上梓する。ラファティからナイトへの返信では、「(前略)或る記事で、サイエンス・フィクションは簡単に書けるものだという印象を受けました。とんでもない話でした、少なくとも私にとっては。(中略)ありとあらゆるサイエンス・フィクション(の雑誌)を一冊ずつ買いこみ、SFが扱っている領域がいかなるものかをつきとめようと試みたものです。いまもってわかりません」。下巻でも同様の書簡が掲載されているのだろうか?(原書を取り寄せれば判ることだが、Orbitは全巻揃えているしなあ...)
 ハヤカワSF文庫にて三分冊の一巻のみ出版されたハーラン・エリスンの「危険なヴィジョン」には(おそらく三冊目に)「巨馬の国」が収録予定。(まだ出ないと決まった訳じゃないと信じたいので、あえて過去形にはしない)この作品も入手は容易だが、本アンソロジーの売りはエリスンによる収録作品に対する饒舌な序文であり、各作家による後書きも見逃せない。といったところで、やはり刊行が待たれる作品集である。(なお、エリスンの序文に引用されているラファティの自己紹介については、"九百人のお祖母さん"巻末の浅倉久志によるあとがきに訳出されている)。
 K. K. ベストセラーズから出版されたカービー・マッコーリー編の「心理サスペンス」(現物は未入手であり、別冊奇想天外No. 12 SFゴタゴタ資料大全集からの孫引きだが)は、"Fright"の抄訳とある。これは、"Oh Tell Me Will It Freeze Tonight"が収録されている"Frights"のことか、と原書を引っ張り出してきたのだが、若干の収録作の異同がありそう。そこで、困った時のAMEQ Land頼みって、海外SF翻訳作品集成で検索すると、 "『恐怖の心理サスペンス』 Frights" とある。収録作の原題をみてみると、手持ちの"Frights"に入ってない作品も幾つか混じってはいるが、ライバーの序文もありほぼ元本と考えてよさそう。とすれば、抄訳時にラファティの作品が省かれてしまった可能性が高くなる。

2/12, 2002

R. A. ラファティのR. A. って?
 R. A. ラファティのR. A. って何の略か?って質問には、比較的簡単に答えを得ることができよう。RはRaphaelでAはAloysius、ちなみにラファティの綴りはLaffertyである。これはいろんな文献に載ってるし、ちょっとネットで検索すればいくらでも発見できる。じゃあ、発音は?これはちょっと問題だ。早川書房や青心社、サンリオ刊の諸作ではレイフェル・アロイシャス・ラファティで統一されている。一方、山形浩生氏はラファエルとの表記だ。(プロジェクト杉田玄白のラファティの項参照)ちなみに、リーダーズ第二版+リーダーズプラスでRaphaelをひくと、ラファエル(男子名)とあるが、発音記号ではアクセントは最初のaにあり、ラとレイの両方が記載されている。なお、Aloysiusはアロイシアス(男子名)とある。Sandra Ley編の歴史改変SFアンソロジー"Beyond Time"によれば、St. Raphael's Dayに生まれたとあるので、それにちなんだ命名かもしれない。名前のカタカナ表記については、過去にも幾多のSF作家たちの名前が変わってきたこともあり、どれが正しいのかって判断も難しいと思う。(僕にとっては、アジモフよりアシモフ、ヴォートよりヴォークト、コーニイよりコニイがピンとくる。そういえば、Avram Davidsonはアヴラム・デイヴィッドスンで落ち着いたのだろうか)さて、再びリーダーズ第二版+リーダーズプラスをひくとなんとラファティが載っているではないか。引用すると、ラファティー (1914- ) 《米国の SF 作家; 電機技師であったが 1960 年代から創作活動を始めた; Past Master (1968), The Reefs of Earth (1968)》ところが、ラファティじゃなくラファティーだ。かくもカタカナ表記は難しい。

恐るべき子供たちの原題
 本作はEQMM '71/6初出時の原題が"ENFANTS TERRIBLES"だが、短編集Mischief Malicious再録時では語尾のsが両方ともとれた"Enfant Terrible"になっている。コクトーの恐るべき子供たちの原題が"Enfants Terribles"で、Enfant Terribleは意味的に過激思想の持ち主といった感じになるので、内容からも"Enfants Terribles"がいいよう思われるのだが。
 と、Mischief Malicious入手時に記載していた。まだなんとなくすっきりとしないので、リーダーズ第二版+リーダーズプラスでもう少し調べてみた。コクトーの原題は正確には"Les Enfants Terribles"で、"恐るべき子供たち"と複数形。"enfant terrible"は通常の意味は"恐るべき子供"で、"過激思想の持ち主"の意味もあるがこれはリーダーズ・プラスに記載されており一般的な語義ではなさそう。では、"enfant terrible"と"enfants terribles"の違いはなにか?って、これは単数形と複数形の違いなのだった。再録時に単数形に直したのが意図的とすれば、主人公のカーナディンのみが"enfant terrible"に該当するとのことかも。
 といったところで、最近購入したOED(Oxford English Dictionary), 2nd. ed., CD-ROM ver. 3 で更に調べてみる。19世紀半ばから使われている言い回しの"enfant terrible"の意味として、"a child who embarrasses his elders by untimely remarks"と、まあいわゆるこまっしゃくれたガキの特性ですな。転じて、"a person who compromises his associates or his party by unorthodox or ill-considered speech or behaviour; loosely, one who acts unconventionally"と。いわゆる"困った奴"ってとこか。
 ラファティの「恐るべき子供たち」に戻って、もしカーナディンのみが"enfant terrible"に該当するからってタイトルを手直ししたのなら、"An enfant terrible"もしくは"The enfant terrible"じゃないかって気もするが、ここでEQMM '71/6の目次をよくみてみると本作のみタイトルがわざわざ""で囲まれているのに気が付く。従って、これは、"いわゆる"「恐るべき子供たち」、といったニュアンスを狙ったタイトルのため、冠詞が外れているのではないだろうか。だから、"The Enfants Terribles"じゃなく""Enfants Terribles""であり、単数形に戻すときは冠詞なしで、さらにわずらわしい""を取ったんじゃないかと。まあ、邦訳(ミステリマガジン, '71/9)は底本がEQMM '71/6なので「恐るべき子供たち」で問題ないだろうが、もし万一Mischief Maliciousが翻訳されることがあったら、「恐るべき子供」という邦題になるんだろうか?コクトーの「恐るべき子供たち」が人口に膾炙している分、なんか間の抜けた印象を受けてしまう。いらぬ心配とは思うんだけどね。

黙示録の乱丁
 黙示録(Apocalypses), Pinnacle Books(初版: Oct./77', 増刷の有無は不明)の第1話、Where Have You Been, Sandaliotis?には明らかな乱丁と思われるページがある。第一章で主人公のキッシュがマーカブ家で猪の丸焼きをご馳走になる場面(p 13)で、みんなは優雅な作法で食べ終えたが、キッシュのみ無器用な食べ方しかできなかった、というくだり。18行目の"All the beautiful people ate the boar beautifully. Only"という1行は、本来12行目に入って"Constantine ate it awkwardly."につながるべきと思われる。そうすれば、17行目の"I suppose I will have"から19行目の"to find out if I am..."と自然につながっていく。

99番目の小部屋の謎
 短編"The Ninety-Ninth Cubicle"。初出はWeird Tales, '84/Fallの筈だったが、"legal reasons"のため販売されなかった。その後、同誌は流出ものが出回ったが、オフィシャルにはMischief Maliciousが初出となる("An R. A. Lafferty Checklist"より)。さて、困ったことにWeird TalesのヴァージョンとMischief Maliciousのヴァージョンでは些細だが重大な差異がある。Weird Talesヴァージョンにあったラスト一行がMischief Maliciousヴァージョンでは削られているのだ。この一行の有無で、オチのついた秀逸なショートショートか、はたまた余韻をもたせた幻想譚かと、全く異なった読後感になってしまう。単なる落丁なのか、意図的な改作なのか、あるいは雑誌掲載時に編集者の意見でオチをつけたのか?Weird Tales, '84/Fallを入手している方は非常に少ないと思うので、以下に同色フォントで削られた最後のセンテンスを挙げておく。"If one could get out."
 追記:さすがに、未訳で入手困難な作品のヴァージョン違いのネタを思わせぶりに書いて何になるんだろう、と思ったので急遽やっつけで試訳してみた。読んでみたいと思われた方は、ご連絡下さい。


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