クレプシス年代記(Annals of Klepsis)
Ace Science Fiction Books, 1983
I All the Peg-legged Irishmen, or Salt for the Ocean
II To Ravel-Brannagan Castle
III Oh, Hospitality Most Strong!
IV The Slaves at the Sale
V Tales of Tarshish
VI Treasure Caves of Klepsis
VII Conversations in a Walk-in Tomb
VIII A Commission in Lunacy
IX The Introspections of Brannagan,
or One Star Too Many in the Sky
X The Possibility of Worms
XI Greater Love Has No Man
XII Lords and Commons of This Realm
XIII Doomsday in the Morning
Review
ラファティの居住世界(The Humanly Inhabited Universe)シリーズの集大成ともいうべき長編。交易惑星であり海賊惑星であるクレプシスにやってきた若き歴史家ロング・ジョン・トン・タイロンの冒険物語。これまでの多くの作品で登場してきたアストローブ、カミロイ、パラヴァータ、アフソニア(豊穣世界)などなどからの登場人物が入り乱れ、われらがアロイシャス・シップラップも登場する。居住世界全体を滅亡への危機へといざなう"終末の日の平衡"とは?その鍵を握る二百歳を越える人物、コードネーム"蹄鉄の爪"とは何者?ロング・ジョンとクレプシスの覇者ブラナガン一族を中心に謎がまた謎を呼ぶ展開がグロテスクで極彩色の幻影に彩られた海の惑星を背景に繰り広げられる。
第一篇:みんな義足のアイルランド人、あるいは塩を大海へ
われらが宇宙、四つの太陽と十七の居住可能な惑星からなる世界。ソル太陽を巡るガイア地球から、プロキシマ星系のアルファ太陽を巡る優雅な惑星群、そしてベータ太陽を巡る洗練されぬ惑星群まで。なかでも三つの交易惑星たるエンポリオン、アパテオン、クレプシスはとりわけ粗暴な世界である。エンポリオンに法はなく、アパテオンは倫理を欠き、クレプシスには歴史が存在しないのだ。
惑星クレプシスの発見者であり、荒々しい交易惑星として創りあげた始祖たる人物クリストファー・ブラナガンは片脚が義足のアイルランド人だった。その出自と片脚のため苦労を重ねた彼は、片脚のアイルランド人なら無料でクレプシスまで招待して助力を差しのべる基金を興した。そして何代かの後に無法の交易惑星として栄えるクレプシスには宇宙中から自称アイルランド人たちが押し寄せてきて、芝居じみた海賊服を纏い肩に鸚鵡(みたいな喋る鳥)をとまらせた義足の住人たちが跋扈する怪しげな様相を呈していた。クレプシスには主星たるベータ太陽の他に、二つの月と太陽があり、夜間でも明るく人びとの眼を眩ますこととなる。地表の茂みと海面を覆う海藻はいずれも鮮やかに彩られている。クレプシスに到着した者は必ず、儀礼的に塩をひと包み大海に投げ入れなきゃならない。と言うのも、実はクレプシスの海は真水なのだ。
クレプシスは時に海賊星と呼ばれる。実際、クレプシスの住人の多くは大雑把に揃った海賊服を着ていた。それらは、地球やアストローブの演劇で海賊たちが纏う衣装のパロディみたいだった。ゆるいだぶだぶのシャツとズボンはダハエ産の鉱物絹で織り上げられ、非常に鮮やかな色彩をしていた。真黄色にオレンジ色に緋色、黄金色と血石色、空青色と海碧色、彩紫色。結び目のついた頭巾もまた鮮やかだ。ああ、そして彼らはアイ・パッチと義足をつけ、飾り帯には短剣をぶらつかせ、垂れた耳にイヤリングが揺れていた。木製の義足はたいてい散髪屋の看板みたいに紅白の縞目に塗り分けられてた。他の色だってあるのにね。また、クレプシスには実用的な靴を履いてる人なんていない。屠殺場用のブーツかカウボーイ・ブーツ、もしくは裸足だ。いいや、でも裸足ったって、たいていは原色のオレンジか緋色か黄色に塗り上げられている。たった一クレプシス・ファージングで彩色槽に足を突っ込めば、まる一日は落ちない色が着くからね。
肩に緑とオレンジ色した鳥を止まらせている人びともいた。地球の海賊が鸚鵡を止まらせてたように。しかしこいつらは実際に喋る鳥たちで、ちょっと離れたとこにいる相手へと口頭のメッセージを伝えてくれるのだ。ただ、せいぜい二百語以内のメッセージを二,三時間程憶えているのが精一杯だった。そして、もしメッセージの内容について訊き返されでもしたら、たちまちとり乱してしまうのだ。
海賊服を纏った人たちの中には、蛇をもまとわりつかせている者がいた。おそらく、剣を吊した飾り帯の半分くらいは、生きた蛇そのものだったろう。そして、こいつらは鳥たちよりもより派手な色あいなのだ。
茂みもまた−−クレプシスに本当の樹木はない−−鮮やかに彩られていた。これは、世界中に敷き詰められた絨毯みたいだ。(地球やアストローブやカミロイの草とは植物学的に関係ない種類である。)そして、海面を覆う海藻群もまた。浮遊し繁茂する植生群は眼が眩むほど鮮やかだ。鋭く強烈な光線を避けるため、多くの人びとは眼の廻りにゴーグルを巻きつけており、色つきの片眼鏡をかけてる人もいた。この片眼鏡では明るい色彩を遮れるようにはみえないんだけど。いいや、むしろ増幅するのだ。人びとはしばしば、片眼鏡を高く空中へ放りなげて、完璧に眼にフィットするよう受けとめた。実際、子供たちにとって片眼鏡飛ばしは、投げ縄での山羊捕りや、鞭鳴らし、パチンコで鳥を仕留めたりするのと同じくらい、夢中になることなんだ。
クレプシスはいつも明るい世界だ、夜でさえも。クレプシスには主星たるベータ太陽の他に、二つの月と太陽がある。プロキシマ太陽とアルファ太陽は離れているが、夜を照らして少なくとも曇った日中程度には明るくしてしまう。空には永遠に光りがあるのだ。これは人びとの眼を眩ますこととなり、クレプシス生まれでも例外でない。私もこの旅の最初にはくらくらとしたものだ。
アパテオンからクレプシスに向かう便には、若き歴史家のロング・ジョン・トン・タイロンたち片脚の自称アイルランド人が三人乗っていた。後の二人は財宝の地図を手にした黒人のアンドリュー・"ゴールド・コースト"・オ・マリーとコード化された技術を探りにきたらしいラテン系のコンチータ・オ・ブリアンだ。また、芸術を求めるターシコア・カラジィ(ほんとのアイルランド人らしい)も乗ってたが、脚を切り落とす気はないようだ。到着した彼らは税関で香り高き葡萄をふるまわれた。この、正式名称"ああ神よなんて葡萄だ!"葡萄を味わったみんなは明るく晴れやかな気分になった。さて、とりあえず地図を入手しようとするロング・ジョンだったが、売り娘にクレプシスには地図なんて存在しないわよってあしらわれる。クレプシスにいるひとが、なんでまたクレプシスの地図が要るの?どうして、そのもの自身を見ずに絵の方を眺めようってのよ?女の子と出かけた時、あなたはその娘を見てるの、それともその娘の写真を見つめるの?当惑したロング・ジョンは、じゃあ近くの大きな町へ行くのに何処で汽車か飛行機に乗ったらいいんだい?って問うと、何処にもないわ。クレプシスに街はないし、汽車もないの。飛行機なんて絶対にないわね。船で水上を移動するのよ。陸地では、金持ちなら動物に乗るし、貧乏なら歩きね。さあ、あなたはいったい金持ちかしら、貧乏かしら?と返される。
税関では、七人の指名手配者たちが逮捕された。全員が即時死刑の筈だったが、絞首台が六人分しかなく、生き残りと全員の財産を賭けたサドンデス・ポーカーにより、強烈に印象的なひとりの男が勝ち抜いた。彼は即金で船を買い、見物してたタイロンらを誘って出航した。みんなから、"王子"と呼ばれるこの男は何者なのか?
「何処へ行って芸術を研究したらいいのかわからないわ」と、ターシコア・カラジィ。「クレプシスには町がないってことが、ものごとをややこしくしてるのよ。草地や見知らぬ人たちの小屋の中で芸術を見つけられるのかしら?」
「何処へ行ってコード化された技術を研究したらいいのかわからないわ」と、コンチータ・オ・ブリアン。「町がないってんのなら、技術なんてあるのかしら?そもそもコードがあるの?」
「何処へ行って歴史を研究したらいいのかわからないよ」と、私。「歴史は実際には町と記録からはじまるんだ。どっちもないとこで歴史が持てるのかなあ。」
「何処へ行って黄金を捜したらいいのかはわかってる」と、ゴールド・コースト・オ・マリー。「百枚以上もの埋蔵された宝の地図を持ってるからな。こいつらが指し示すところに行きたいんだ。思うに最も魅力的なやつは、このクレプシス第三港の近くにあるんだ。誰か、ここから南と西に向かう水路に詳しい奴がいたらなあ−−。」
「私だったら、このあたりは総てよく知ってるよ」思わずつりこまれるような容姿と、独特の威厳にみちた声をした男が言った。「そのスケッチをちょっとみせてごらん。ああ、わかった。何処かが正確に判ったよ。早速、船を調達しベータ太陽の日の入りまでに辿り着こう。さあ、行こう行こう。遅れるな!」
第二篇:レイベル・ブラナガン城
クレプシスの四分の三を占める大海は"我が名は冒険"と吠えている。99の"大陸"は実際は半島を触手のように延ばした島々であり、クレプシスでの交通手段はもっぱら船となるのだ。海面には鮮やかな海藻による"コルクの島"が浮かび、獰猛な"コルク島牛"をはじめとする様々な家畜が放されている。クレプシスには木材がなく、初期から豊富に産出する金属性の船が建造されていた。船や宇宙船は特殊なマグネシウム鋼で建造され、クリストファー・ブラナガン特製の"硫黄と秘薬"が添加されている。
ロング・ジョンらを乗せた船ディーナ・オ・グローガン号の持ち主は追放された王子フランコで、船は彼の生まれ育ったレイベル・ブラナガン城へと向かっていた。王子は船員のジェローム・ホワイトウォーターを偽の船長に仕立て上げ、自身は"ぼんやり化"して姿をくらます。この"ぼんやり化"とは、クレプシス生まれの双子の特性であり、亡霊のごとくなんか不明瞭な存在となるのだ。フランコによれば、クレプシスの祖クリストファーも実は双子であって、墓所には両足が揃った完全な遺骨と、片脚が木製の義足である亡霊が二百年を経て今なお棲んでいるという。
私はこの建造物の高さに感銘を受けた。六つの物見塔と、さらに高く不可思議なひとつの塔に。私はなおも感銘を受けた。その放牧池に河馬が群れなすイタリア庭園に。そしてまた、象が群れなす英国風庭園に。私はさらなる感銘を受けた。たわわに実る"夏葡萄"すなわち"ああ神よなんて葡萄だ!"葡萄によって、紫と薄紫と菫色と真紅に彩られた畑地に。海からの眺めが、かくも美しい城はかつてなかっただろう。
「これが、レイベル・ブラナガン城だ」元重罪犯たる王子は言った。「よく見つめろ。君自身がその中に入り込み、また君自身の中にこいつを入れてしまうんだ。君は歴史家だ、ロング・ジョン。レイベル・ブラナガン城にはクレプシスにある歴史の総てがある。たやすい形じゃなくな。この城こそがクレプシスだ。この惑星の総てのものは、その延長に過ぎないんだ。」
レイベル・ブラナガン城で彼らを迎えたのは、フランコの双子の王子でクレプシスの現支配者たる海賊王子ヘンリー・レイベル・ブラナガンの妻アンジェラ。彼女は姿をくらましたフランコへの愛慕の念を高らかに語るのだった。
一行はクレプシス一の美女に率いられていた。でも、どうやって彼女が一番美人だなんて判ったのか?私はポケットにあった当地の金貨を眺めてみたのだ。そう、彼女だ。クレプシスの十タレル金貨には総て彼女の肖像が刻んであった。そして、"王女アンジェラ・ギルマーティン・レイベル、クレプシス一の美女"との称号も。硬貨がそう語っているんだから、彼女が一番の美女と言う訳。
第三篇:おお、最も強烈な歓待よ。
しかし、一行は期待した歓待は得られなかった。フランコの残り香を感じ取ったヘンリーにより、十六人の乗組員全員は鋼鉄の監獄"囁く部屋"にぶち込まれた。今夜開催される大奴隷市の余興として、死刑執行の見せ物とされるのだ。
部屋に閉じこめられた十六人のうち、四人はクレプシスへの新たな訪問者だった。それは、
ターシコア・カラジィ、芸術に打ち込んでる。
アンドリュー・"ゴールド・コースト"・オ・マリー、黄金とその在処が記された地図に取り組んでる。
ロング・ジョン・トン・タイロン(私だ)、歴史に打ち込んでる。
コンチータ・オ・ブリアン、コード化された技術に取り組んでると言ってる(んだけど、"コード化された技術"ってのがそもそもは彼女が取り組んでる何かのコード名に過ぎないんじゃないかって、私は疑い始めていた)。
そしてまた、ディーナ・オ・グローガン号の乗組員十二名が一緒に閉じこめられていた。それは、
ジェローム・ホワイトウォーター、明らかにフランコ王子の一党たる義足の男。
オーティス・ランドシャーク、交易惑星アパテオンからの冒険者。
クウォン・タイ、クレプシス生まれの中国人。
偉大なるカール・オルカ、アストローブから来た反逆者。
ポルトガル人バルトロモ、ファー・ターシシュあるいは別なところからやって来た偽名の男。
ヘクター・ラフカディオ、豊穣世界(アフソニア)から来る"ギリシャの神"。へクターは赤と褐色の大理石から削り出された英雄の如き見映えで、話し方もかの如し。つまり、あんまり喋らないってこと。
ケイト・ブライススピリット、カミロイ産の"アマゾン"。非常に知的な惑星カミロイ人としては型破りだ。実際、彼女はちょっと陽気すぎるみたい。
フェアブリッジ・エキセンダイン、交易惑星エンポリオンからの安っぽい哲学者。
フランク・シェア、地球から来た義足の黒人。
セバスチャン・ジャマイカ、クレプシス生まれ。
スパラティカス、ファー・ターシシュからの巨大な逃亡奴隷。
ホグソン・ロードアップル、ホーキーの星から来た平凡な男。
彼らが閉じこめられた"囁く部屋"は、その極めて伝導性の良い壁の材質から城中の物音や会話が聞き取れるのだった。そのひとつ、ヘンリーと特使の会話では、居住世界全体で禁じられている奴隷市の開催について中止を求める特使に対し、ヘンリーはクレプシスには完全な自由があるのだ、奴隷を所有するという自由も含めてな、と主張する。さらに、つべこべ言ってると始末してカミロイ人(物真似が芸術の域に達している)の替え玉と入れ換えるぞって脅しをかけるのだった。
やがて、アンジェラの助けにより一行は部屋をあてがわれ歓待を受けることとなった。豪奢な部屋では全員に二万タレルの贈り物があり、"ああ神よなんて葡萄だ!"葡萄がふんだんにふるまわれた。一行が蒸気オルガンの音に誘われて庭へと出ていくと...。
そう、それははなはだしいものだった。そう、それは悪趣味だった。そう、それはクレプシスでのみみられるような粗雑なものだった。一ダース以上もの異なる大陸から集められた百台もの蒸気オルガンが最大の音量で合奏してる(いやいや、違うって。合奏してるんじゃない。いちどきに音を出してるだけで、決してぴったり同時に演奏してるんじゃないんだ)、それは半ダースもの世界の騒然としたサーカスの曲だ。こいつは、我々の血の中にある原初の何かを掻き乱した。そして、蒸気オルガンの調べの他にもまた我々を外へと誘ったもの、それは丸焼きの鯨が放った鼻を燃えあがらせるような芳香だ。小型鯨で、重量にして十三万六千キロ、すなわち百五十トンだ。捕鯨士たちは非常に保守的なので、未だトン表示なのだ。ううむ、百五十トンもの丸焼きの鯨は、他の何ものとも違えようがない芳香を放っている。ああ、かの香りよ、かの香りよ!
奴隷市では、地球やアストローブやカミロイ産の一万人もの人間と、ターシシュの短尾人たちを含むそれ以上の亜人間たちが商われていた。アンドリューやターシコアらみんなは美男美女の奴隷を競り落としていった。スパラティカスは実の兄弟を競り落とした。ロング・ジョンは燃えるようなオレンジと黄と赤の髪をした女奴隷タッレイラ・ソーンを競ったが、スパラティカスに持ち金を与えたために空ビッドとなり、親指で吊されて鞭打たれることとなる。血塗れで苦痛に喘ぐロング・ジョンをみて、ああ、あなたこそ生の芸術そのものねって喜ぶ脳天気なターシコア。その後タッレイラをよく知ってるらしいアンジェラがロング・ジョンにこっそりと金を与え、競りは続いていく。
第四篇:競りにかけられた奴隷たち
吊されたロング・ジョンに忍び寄る影があった。姿を隠したままのフランコだ。彼の計らいによりロング・ジョンはタッレイラを競り落とし、自由の身となった。自由だって?タッレイラはロング・ジョンに話しかける。
「さて、あたしがあなたを買い取った訳なんだけど」彼女は言った。「これから、あなたが守らなきゃならない簡単なルールを教えてあげるわね。あなたが基本的な服従を覚えさえすれば、あたしたちとてもうまくやっていけると思うの。でも、もしそうしなきゃ、ちょっと非道いことになるわよ。」
「しかし、君を買い取ったのは、僕のほうなんだよ」私は遮った。
「そう信じていたけりゃ、いてもいいのよ。別に問題ないだろうし。あたしたち、解ってくるわ。そのうちにね」タッレイラ・ソーンは不可思議な笑みをうかべて言った。
タッレイラは出自を明かす。彼女もこのブラナガン城で生まれ育った王族(ヘンリーとフランコの姪)だったのだ。タッレイラによれば、この城には眠れる美女の間があり、傴僂の小人であるカシモドが眠りについている。カシモドは二百年前にクレプシスの祖クリストファーと共に七年間の流刑に遭い、その間に秘めたる力を譲り受け、ある特命を帯びてブラナガン城の一室で眠り続けているらしい。そのコードネームは"蹄鉄の爪"という。タッレイラとロング・ジョンは子馬ほどもある蜘蛛が張り巡らせた蜘蛛の巣をかきわけて城の地下にあるワイン倉に辿り着いた。ワイン倉には"囁く部屋"へと連なる扉があり、中からは解放された筈の一行のゴールド・コースト・オ・マリーやターシコアら全員----ロング・ジョンも含んで----の声が聞こえてきた。ロング・ジョンは非現実感からくるパニックに陥るが、タッレイラは癒しのために彼をでっかいワイン桶につっこんだ。ワインの海でロング・ジョンは溺れることなく、全身に活力がみなぎってくるのを感じるのだった。
「ソーン、我が武装せり愛しの君よ」私は呼びかけた。「もし現実と非現実を区別できるひとがいるのなら、宇宙の果てまでもついていくのに。」
「そう、あたしも。あたしもついてくわ」彼女は言った。「現実と非現実を区別できるようなひとは、ただ歴史家だけよ。」
「でも、僕は歴史家だよ。」
「知ってる。他の何ともみなしたことはないわ。そしてあなたは現実と非現実を区別できる碧の石をその脳髄の中にいだいているのよ。そのあなたの才能こそが、あたしがあなたを探していた訳なの。」
「ソーン、僕をからかってるんだね。」
「あら、少しわね。ほんのちょっぴり。」
「本当のとこ、君は何者なんだい?」私はワインで満たされた癒しの海から呼びかけた。「どうして、このレイベル・ブラナガン城で生まれることになったんだ。」
「あたしの本当の名はタッレイラ・ソーン・レイベル・オ・グローガン・ブラナガン。」
ワインの桶の中で、ロング・ジョンの傷は瞬く間に癒えてしまった。ロング・ジョンは無邪気に、このワインを瓶詰めにして売り出せば大金持ちになれるよってはしゃいだが、タッレイラによれば少なくとも五千バレルのワインの量をもって始めて癒しの効果が得られるとのこと。また、ワイン桶の底には六人の身体が沈んでいたが、ひとりは五十年前に先王により投げ込まれた男で、徐々に癒されもうすぐ生き還るだろうという話。
タッレイラとロング・ジョンは城を出てオ・グローガン山に向かった。なだらかな丘陵が続き最大百メートルの高さから眺めるレイベル・ブラナガン城は六つの物見塔とひとつのさらに高い鐘楼塔がそびえ立っている。物見塔の五つは今は亡き五人のブラナガン一族にちなんでクリストファー、ジャヌアリス、ジューダ、デイヴィッド、クラウドと名付けられ、各々にはその幽霊が棲んでいる。六つ目は現在の支配者ヘンリーの塔だ。支配者が亡くなると塔の階段は取り壊され(亡霊に階段は必要ないからね)、新たな支配者の塔が建造されるのだ。鐘楼塔はオ・グローガン山頂よりも高く、En-Arche鐘楼塔と呼ばれる。そのいわれは謎につつまれ、鐘の音を聞いた者もいない。デイヴィッドの塔からタッレイラがいつの間にか失敬してきたドイツ性の高性能双眼鏡で眺める二人。日が暮れ、各々の物見塔に灯りが着き、亡霊たちが活動を始めるのがみえた。
山上には五匹の優雅な喋る熊たちがいた。最近アストローブの黄金庭園より摩訶不思議にも消え失せた熊たちだ。いつの間にか現れたフランコがどうやってクレプシスにやってきたのか尋ねると、一言、"跳んできたよ"。ロング・ジョンは怒れるヘンリーが物見塔から三人を眺めているのに気付く。
城では公開処刑ショーで賑わっていた。フランコによれば、ヘンリーはアンジェラにより解放されたロング・ジョンらの替わりの犠牲者たちをかき集め、精巧なマスクと録音された声から代役をしつらえていた。ワイン倉でロング・ジョンが聞いたのは、録音された彼らの会話をヘンリーが再生していたのだ。犠牲者の何人かは代役で、残りは再び捕らえられた仲間たちだった。フランコはロードアップルの転がった首が呪詛を呟くのを読唇術で読みとった。歴史家の端くれとして読唇術ができないのが露呈し、フランコとタッレイラに呆れられるロング・ジョン。フランコによれば、歴史とは主に双眼鏡で盗みみた会話から編纂されるのだ。
それは、ターシコア・カラジィの緋と黄金色の衣を纏った娘だったが、ターシコア本人じゃなかった。もっとがっしりした体格だ。その娘、偽ターシコア(ターシコアより強靱で、決然としている)は象に踏み殺されるのだ。ううむ、ヘンリー王子はとびきりの獣たちを飼っているみたい。娘は仰向けで手足を杭に縛られ、巨象が四本の足でもって彼女を踏みつけた。
「女性は男よりも耐えうるものよね」ソーンは私に言った。「あたし自身、象一頭ならいけるわ。でも、それ以上みたいよ。」
象がどかされ、執行人が生死の確認に行った。娘は飛び起きた。四本の杭を引き抜き、両手を腰に当てて仁王立ちになり、執行人を激烈に罵ったのだ。
私は意気込んで読唇に取り組んだ。彼女の烈火の如き呪詛の半分は聞き取れたが、残りは想像で補うしかなかった。
彼女は再び寝かされ、より重く長い杭に縛り付けられた。杭を打ったその槌で頭をも殴りつけた後に、長く幅広く重い板が身体の上に置かれた。四頭の象を連れてきて、板の両端に二頭づつ乗せて三分間。ここで、彼女の生存のオッズは二対一となっていた。何か革命的な動きを巻き起こしてるようだった。
「殺せやしないぞ、彼女はな」人びとは意見を述べた。「もっと象が要るな。」執行人は象をわきにどけて、生死の確認に行った。再び、娘は飛び起きた。大きな板をひっくり返し、四本のより大きな杭を引き抜き、仁王立ちになって執行人を七倍にも罵ったのだ。
「あら、あら、あら!」ソーンは叫んだ。「かわいそうな不屈のイシュロノモン!娘と象と、どっちが先に果てちゃうのかしら。」
「そりゃあ娘だろう」と悲しげにフランコ。「レイベル・ブラナガン城で象が尽き果てることはないからね。」
彼女は再び寝かされ、今度は手足に各々三本づつ大きな杭があてがわれた。頭を同じ槌でより容赦なく殴りつけられ、これが決め手となったようだ。さらに四頭の象が連れてこられ、全部で八頭となった。板の両端に四頭づつ乗せてたっぷり九分間。それから象をどけて検分した。彼女は死んでいた。
フランコはロング・ジョンとタッレイラを城の近くの墓所に連れていった。そこには燃えるようなオレンジと黄と赤の髭を生やした、緑衣の者と名乗る老人がいて、ロング・ジョンとタッレイラに儀式を施した。互いに指輪を交わし、お前は我が一族となったと言われ系図を渡されても、どこか鈍いロング・ジョンはこれが結婚の儀とは気付かないのだった。
城へと戻る道すがら、あたしたち結婚したのよ、と言われ驚愕するロング・ジョン。城近くの荒れ地では地中を掘り進む謎の音がしていた。城の庭では饗宴に供された鯨の丸焼きがほぼ半身を食い尽くされ、洞穴のごとき体内には灯りが焚かれて小劇場の様相を呈している。処刑場では最後の犠牲者として、ロング・ジョンの替え玉が引き出された。再び姿を見えなくしたフランコが彼に銃をわたし、処刑執行人たちをなぎ倒した。そして、それを合図に何千もの発砲音が響き渡り、盛大な銃撃戦が始まったのだ。ロング・ジョンとタッレイラは鯨の中へと逃げ込んだ。
第五篇:ターシシュのお話
鯨の中には子供を中心に百人もの人びとがいて、ターシシュから来た語り部のお話に聞き入っていた。
最初に跳んだのは回転アザミじゃ。ある惑星の大草原を転げ回るうちに、あらゆる草木の種や胞子やらを集め、虫の卵を集め、小鳥の巣を卵ごと集めていった。そのうち、ある惑星で転がってたのが一瞬にして別の星系の太陽を巡る惑星の上を転がるようになった。こうして、異なる惑星に同じ種の草木や虫や小鳥たちが棲むようになったんじゃ。
さて、こいつは魚にも起こった。ある惑星の小川や湖や海洋や大洋や河を泳いでおった魚たちは、たちまち別の惑星でも同じように泳いでおった。こうして、異なる惑星に同じ魚が泳ぐようになったんじゃ。ただし、鯨は別じゃ。跳ぶにはちと大きすぎたんじゃな。
その後、いろんな動物たちも神によって跳ぶことを許された。最後にターシシュの短尾人たちも誤って跳べるようになった(神が彼らを人間じゃなく猿の仲間と取り違えたからだと)。それで、ひとりの短尾人が乗っていればその船は異なる惑星へと跳躍できるのだ。神は慌てて禁じたが、海賊どもは聞き入れず短尾人を乗せて惑星から惑星へと略奪にいくようになったとの話。ロング・ジョンはこのお話を気に入ったのだが、タッレイラによるとどうもこれは実話みたい 。それから、語り部は直感と無意識で構築される不可思議なターシシュの文明を語り、こまっしゃくれたクレプシスの少年たちと奇妙な存在論の討議へと入っていく。
「いや、違うね」語り部は説いた。その少年が言ったことをほぼ理解したかのように。「世界は既に存在している、もしくは永く存在していた、なんて考えは総て間違っとる。スコカムチャックでは世界は四百年前に出来たと言われ、アフソニアでは八百年前、アストローブでは千二百年前とされる。ガイア地球では(みなさん、よく聞いておいてね!)二千二百年だ。地球人は二千二百年の間、居住してきたと言っとる。じゃが、これらはみんな存在せぬ精神の中での想像に過ぎんのだ。世界は未だ始まっとらんのだよ。」
「じゃあ、いつ始まるんだよ、語り部のおっちゃん?」三人目の少年が尋ねた。
「もうすぐじゃ、坊や。ほんの少し先のこと」語り部は言った。
それから、いろんな話(タイトルだけ)が語られた。だいたいはクレプシスやターシシュの歴史にちなんだものだけど、"メイビー・ジョーンズの都市についての真実:メイビーが信じてたようなもんじゃなかった!!"なんてのも混じっている。また、新着の話で"象に踏み殺された不屈の娘"なんてのも。
鯨の天井の穴から、城のデイヴィッド塔が燃えているのが見えた。石造りなのに、何で?といぶかるロング・ジョンだったが、実は泥炭で出来ていたのだ。だが、木が存在しないクレプシスになぜ泥炭があるのか?やがて、銃声が途切れた。クレプシスの戦闘はすぐに弾薬切れになるらしい。鯨の地下からは掘る音が近づいてきて、顔を出したのは懐かしやゴールド・コースト・オ・マレー。
「地底の巨人だ。この星の真ん中に棲んでる奴らだよ」少年たちはみんな叫んだ。「地底人の真っ黒な顔をみてみなよ!絶対、語り部なんかよりもっと話をしてくれるぜ。惑星の中心でどうやって暮らしてるかとかさ。それに、黄金を持ってるよ。地底の住民はみんな黄金をもってるものさ。ちょっとおくれよ、地底の巨人さん!」
ゴールド・コースト・オ・マレーはみんなに大きな金貨を与えた。ポケットは金貨でいっぱいだった。
「やあ、歴史家のロング・ジョン、俺達について降りてこいよ。君の奴隷娘も一緒にな」ゴールド・コーストは言った。「この抜け穴は塞いじまおう。金持ちになったぜ、本当の金持ちにな。お宝の地図は本物だったぞ。」
王女ソーンと私はゴールド・コースト・オ・マレーに続いて鯨の地下へと抜け穴を降りていき、後を塞いだ。
だが、私たちはターシシュの語り部の話のうち、ひとつは真実であることを知っていたのだ。それがどの話かも。
君の思ってるやつじゃあないよ。
第六篇:クレプシス宝の洞穴
ロング・ジョンは系図を眺めてみた。亡霊たるクレプシスの祖クリストファー自らの手になる系図には、四頁にわたって二百年間の一族の名前と簡潔な説明が書き記してある。彼らはほとんどが海賊としてクレプシスのみならずあらゆる惑星の海を荒らしまわっていたのだ。系図の末尾にはヘンリーやフランコの記載もあり、タッレイラについては口に出せないような罪のため野に下ったと書かれていた。
地下の洞穴はゴールド・コースト・オ・マレーの宝の地図通りだった。記された鯨のマーク"大海の女王"ホテルを目当てに掘りぬいた上が、鯨の劇場だったという訳。でも、この鯨が運ばれてきて丸焼きにされたのは今日のことなのに、何であらかじめ地図に載ってたの?
ゴールド・コースト・オ・マレーの他、八人の仲間達が一緒だった。ターシコア、ホワイトウォーター、ポルトガル人バルトロモ、豊穣世界のラフカディオ、カミロイのケイト、哲学者フェアブリッジ、生粋のクレプシス人セバスチャン、逃亡奴隷のスパラティカス。コンチータら残りの仲間はヘンリーに殺されたらしい。洞穴には光り輝く金貨や宝石が詰まった箱がいっぱいあった。一般に宝物は光りを反射して輝くのだが、かくも莫大な量となると自ずから光りを発するのだ。さて、洞穴には十一の側穴があり、アストローブのマスチフ犬に似た機械獣が守りを固めていた。タッレイラによれば、百二十年前の天才ガジェット使いプレスター・ジョンの手になる精巧な番犬だ。宝物だけなら洞穴に十分過ぎるくらいあるのだが、横穴には何か別の魅力が漂っていた。特に、腐臭と魅力が混在する"青髭"ことレヴィ・ブラナガンの横穴にケイトは惹きつけられた。横穴にはいずれも宝物とブラナガン一族の海賊たちの遺骨があるのだが、生前に十三人の妻と百人もの子をなしたレヴィの遺骨には、未だ朽ち果てざる腐肉が残っているという。タッレイラは以前にターシシュの語り部より聞いた話を披露した。
海賊"青髭"はクレプシスの宝の洞穴で未だ肉の欲望を無くしておらんのじゃ。身体は腐り、亡霊もまた腐ってしもうてもな。かの臭気は洞穴に満ちた。青髭は女たちにとって魅力溢れる男じゃったが、死してもなお尽きることはなかった。
昔のこと、ちいちゃな娘っこが、毎日洞穴で遊んでおった。母親から、骸骨で遊ぶならそいつがほんとに死んどることを確かめてからにしろって言われとったのに、ある日娘っこはすっかり忘れてしもうたんじゃ。朽ちた骸骨の中で、ひとつだけ腐肉を残したやつがいて、娘っこに呼びかけた。
「たましいをおくれ、いのちをおくれ。
われとともに腐り、わが妻となれ。」
「ええ、いいわよ。」娘っこは応えた。そうして、洞穴の中で百時間の間、かの青髭の妻となったんじゃ。娘っこが出てきたとき、あまりに臭いがひどかったんで荒野へと追われてしもうた。その夜、娘っこは男の子をひとり産み落としたんじゃが、腐って強烈に臭い肉が骨の半身に纏わりついただけの子じゃった。娘っこは息子を放って逃げ出した。じゃが、後を追ってこられ、逃れることはできなんだ。娘っこは今でも走っており、腐った坊やも追いかけておる。夕刻にはしばしば荒野でこいつらを見かけることがあるんじゃ。
タッレイラによれば、ターシシュの語り部の話にはけっこう真実が含まれており、この話もそう。彼女自身、いちどふたりの追っかけっこを目撃したとのこと。ケイトが応えて、そんなこと言ってると舌が腐って落ちちゃうわよ、でも、今やあたしも青髭に強い興味が湧いてきたわ。彼を感じるの、彼を感じるのよ、だって。
洞穴にはまた、中世の学者の扮装をしたような蝋人形があった。いや、人形じゃない。それは動き出したのだ。彼は収税士だと名乗り、百年以上前から洞穴の宝物を持ち出す輩から十分の一税を取り立ててきたのだと言う。タッレイラが王族たる身分を明かすと、収税士は"一族の予言の書"を紐解き、タッレイラの項を読み上げた。この書には夫たるロング・ジョンのことまで記されてあった。口に出せない罪を犯したとの下りについて、あたしたち仲間でしょ、教えて、教えてよって脳天気に追求するターシコアやケイトたち。ロング・ジョンは史料として"一族の予言の書"の写しを求めた。
二時間ほど休息をとり、悪夢にうなされて目覚めたロング・ジョンの前に、どこか見覚えのあるびしょぬれの男が現れた。癒しのワイン桶の底に沈んでいた男が五十年かけてやっと回復したのだ。彼は、クリストファーの亡霊のもとへロング・ジョンとタッレイラを連れに来たのだった。クリストファーはとびっきりの歴史家を所望しているらしい。自信ないロング・ジョンに、その振りをしろって唆す男。タッレイラもくすくす笑いながら、あら、あたし間違った男と結婚しちゃったみたい。でも、棄てたりしないわよ、愛しいひと。なんとかのりきっちゃいましょうよ。
第七篇:墓所での会話
クリストファーの話では、タッレイラとロング・ジョンの結婚の儀が終わったすぐ後に、自分こそとびきりの歴史家と名乗る男が現れたので、無縁墓地に眠ってもらったとのこと。ロング・ジョンが真摯にその男と話し合ってみたかったと言うと、死んでも七日以内なら簡単に幽霊として呼び出せるぞってクリストファー。それより問題は、クリストファーがロング・ジョンに自分こそがとびきりの歴史家だという証拠となる発言もしくは行動を、今後数分おきに何か示していくよう要求したのだ。さて、墓所の棺にはクリストファーの遺体が安置されていた。しかし、これは...。
「伝説では、あなたは片脚が義足だったとされています。そして、そのためにあなたは義足のひとたちをクレプシスに招いて居住させてきたのだと。あなたの言葉として、我に充分なだけの義足のアイルランド人を与えよ、さすれば世界をも支配してみせよう、というのが記録されています。そして、今あなたは義足の亡霊です。でも、あなたの保存されているこの肉体は両足が揃ってるようにみえますね。」
レントゲンでも両足の骨は確認できた。なのに死後の亡霊は義足だ。何かまやかしがあるみたい。ところで、ワイン桶の底に沈んでいた男は執事フィデリスだった。彼によると、今話しているクリストファーは亡霊なんかじゃなくって、"忘れられた双子"だそうだ。亡霊と違って僅かながら体重(一ポンド!)があるのがその証拠。すなわち、二百年生き続けている双子のかたわれだと言うのだ。だが、この意見にクリストファーは懐疑的である。そして、彼は何が現実で何が非現実であるのかを知りたくて、とびきりの歴史家を欲していたのだ。彼による歴史の定義は、何が現実なのかってこと。歴史として成り立たぬものは、すなわち現実じゃあないのだ。クレプシスにはそれを複雑な問題としている三つの要素があった。ひとつめは強烈な幻覚をもたらす様々な植物が繁茂し、永く住むひとはみんな正気を保てない。いや、動物も、鳥類(ただ一種を除いて)も、虫も海の生物たちもみんな正気じゃいられない。みんな、いかれてる。クレプシスはいかれた惑星なのだ。
クリストファーが創りあげたクレプシスの二百年は、まったく正気じゃないものだった。たくさんの高層建築や、ブラナガン城そのものの存在もまた、現実か非現実かが怪しいもの。実際、クレプシスを訪れる人たちには二パーセントの割合でブラナガン城が存在しなかった。単に視えないだけじゃなく、城や塁壁を易々と突き抜けてしまう。この対策として、クリストファーは"ああ神よなんて葡萄だ!"葡萄作戦に出た。強烈な幻覚性をもつこの甘美な果実を、クレプシスのあらゆる港や施設にふんだんに用意して訪れる人びとにふるまったのだ。そして、九十パーセントの人が知覚するものは現実とみなす、という勅令を出した。こんな状況下だからこそ、確かに現実と幻想とを見分けられる歴史家が必要とされているのだ。
ふたつめの問題は、クリストファーがこの惑星の開発を始めたとき、果たして十分な人口を得ることができるだろうかって懸念があり、とりあえずたくさんの幽霊(ファントム)たちを呼び出して実在を与えてしまったということ。本物の人間たちが入植をはじめても、彼らは去ってくれなかった。それどころか、人間の母親に宿って実体を得たり、動物たちに乗り移ったりして未だにかなりの幽霊たちがはびこっているのだ。少なくとも全人口の三分の一は。
クリストファーの話に聞き入っていると、墓所の壁を抜けて小鳥が飛び込んできた。小鳥はクリストファーを突き抜けた。彼は亡霊だからね。次いで、執事フィデリスを。まあ、彼も似たようなもんだから。しかし、小鳥はロング・ジョンをも通り抜けて飛び去ったのだ。これこそが、バナー鳥。クレプシス土着の鳥でただ一種幻覚植物を喰べない種である。このいかれた世界で唯一の正気な生物で、あらゆる幻覚を通り抜けてしまうのだ。ロング・ジョンは不安になった。自分も誰かの幻覚なのか?でも、幻覚が意識をもつことなんて可能なのか...。
三つ目の問題はクリストファー自身のこと。クレプシスの進歩を妨げているのはクリストファーの存在であり、彼がいる限りこの惑星は伝説もしくは歴史前夜の状態を脱し得ないというのだ。この問題を話し合うために、執事フィデリスは哲学者フェアブリッジを連れに行った。
第八篇:狂気の委員会
クリストファーは、生ける者も死せる者もあらゆる人間を呼び出せるといい、"妻を除いての最愛の人物"を呼び出した。彼が何者かと問われたロング・ジョンは洞察力を働かせ、義理の息子ジャヌアリス・オ・グローガンだと正解しなんとか面目を保つ。クリストファーは旧えの"狂気の委員会"をこの墓所で再結集しようとしていたのだ。続々と実体化する亡霊たち。
ロング・ジョンはジャヌアリスに洞穴の黄金について尋ねた。てっきりクレプシスの海賊時代に活躍した彼の子供たちが集めたものだと思っていたのだが、ジャヌアリスによれば先に黄金があって、洞穴は後からその周りに創られたのだと言う。じゃあ、最初に黄金をそこに置いたのは誰?
「それはドラゴンたちだ、歴史家よ」偉大なるオ・グローガンはその複雑な声で言った。「旧えのクレプシス・ドラゴンたち(Draco Rufus種に属するやつだね)が何千年も前に採掘し鋳造したらしいな。ここクレプシスには、実にたくさんの鋳造所があったんだ。この宝の洞穴にある金貨を調べてごらん。刻まれている言葉や意匠や銘を。大部分がドラゴン鋳造だと判るだろうよ。」
「ねえ、愛しいひと」ソーン王女は私の耳に囁いた。「ちゃんと空中でキャッチすることを学ばなきゃ。バウンドやドリブルさせちゃだめよ。偉大なるオ・グローガンはとびきりのかつぎやなんだから。」
洞穴では一部の宝箱からうめき声が聞こえており、ターシコアが開けてみると人骨が詰め込まれていた。また、ポルトガル人バルトロモたちはドラゴンの幼獣をみつけたが取り逃がしたとのこと。ロング・ジョンが金貨を調べてみると、多くには様々なドラゴンの肖像が刻まれていた。クレプシスには本当に鋳造技術を有するドラゴンの眷属がいるのか?タッレイラによると、クレプシス帝国大学(実はブラナガン城内の一角にある)にはドラゴンの席が用意されており、"ドラゴンと話す男"フロバート・トラクスレイが教鞭を執っていた。
墓所では、その昔にクリストファーの母親が彼の双子疑惑に対し地球から送ってきたファックスの解答が披露されていた。それには双子じゃなかったと記されていたのだが、実は用紙の裏側に真実が書き付けてあったのだ。医者の告白では、クリストファーに次いでもうひとり生まれてきて、すぐに"ぼんやり化"して姿をくらましてしまった。彼は"忘れられた双子"としてなかったことにされてたんだけど、三週後に家族のもとへ戻ってきた時にはすでに歩いたり喋ったりできた。"忘れられた双子"の方は極めて早熟で、四ヶ月時には技術書を読みこなした。家族といるときは常に実体化していたんだけど、他人がくるとしばしば"ぼんやり化"した、とのこと。いま話している義足の亡霊こそが、この"忘れられた双子"だったのだ。
亡霊のジョシュア・ソーン(冴えない傍系の先祖らしい)は、クリストファーがクレプシスに悪影響をなしていることを訴え、抹殺を要求した。クリストファーは彼を殺したためにクレプシスの王座を剥奪され、荒涼たるアステロイドへ七年間の追放の憂き目にあったのだ。ジョシュアによれば、狂人たるクリストファーはクレプシスにおける総ての存在が彼の想像の産物に過ぎず、彼の死とともに消滅する、と主張している。本当かどうか、殺してみようって訳だ。他の亡霊たちもこぞって非難をはじめたが、意に介さないクリストファー。彼はロング・ジョンとタッレイラを夜の航海に誘った。ディーナ・オ・グローガン号で、生き残りの乗員たちと、王子フランコと王女アンジェラ、"ドラゴンと話す男"フロバート、つい先ほど埋められた歴史家(真の"とびきりの"歴史家らしい)、侍医ルーク・ギルマーティン、執事フィデリス、そして緑衣の者。ロング・ジョンとタッレイラは真の"とびきりの"歴史家を復活させるため、墓所を抜け出した。星空を見上げて驚くタッレイラ。ひとつ星が多すぎるのだ。
第九篇:ブラナガンの内なる世界、あるいは空に星ひとつ多すぎる
ロング・ジョンは、空に星ひとつ多すぎるってどういう意味なのか尋ねた。夜でも明るいクレプシスの空には、肉眼では65個の星しか視えないためひとつでも余分な星があればすぐ判るのだ。余分な星は、たった今誰かが殺されたことを顕すしるしである。殺人が正当なものでなければ、この星は明々と昼間でも輝きわたるのだ。敵討ちがなされるまで、もしくは三日三晩の間。一方、正当な殺人であればこの星はすぐに消え失せる。どうも再びクリストファーによるジョシュア・ソーンの殺害がなされたみたいだ。
無縁墓地で歴史家の墓を探すロング・ジョン。今日は公開処刑やら銃撃戦やらで埋葬の花盛りだのに、どうやって名前も判らぬ歴史家の墓を見つけられるのだろうか。そんなロング・ジョンに呆れるタッレイラ。一番新しい墓を掘ればいいのよ、歴史家のくせに外観や臭いで判らないのって。さて、タッレイラの呪文により甦った歴史家はタイタス・リヴィアス・モリソン・ブライス、クリストファーの求めていたとびきりの歴史家で、タッレイラの夫となるべきだった人物だ。一行は突然に現れたフランコとともにディーナ・オ・グローガン号へと向かった。夜空の余分なひとつ星はすでに消え失せていた。
亡霊たちがクリストファーをつれてきて、マストに鎖で縛り付けた。そして、一行はオ・グローガンの指揮のもと、航海に乗り出したのだった。船内には、城で二百年間眠り続けている筈のカシモドが、若き日の姿で出没していた。しかし、亡霊たちには視えないらしい。また、密航者が捕らえられた。歴史家タイタスによれば、パラヴァータ防衛軍のゴルコンデ元帥だ。クレプシスやターシュシュの星間航法の謎を探りにきたのだ。クリストファーは歌っていた。
「わが眼は冴えわたり、わが顎髭はカールして。
わたしは男も女も恐れはしない。
もし他の世界へと跳ぶならば、
われらは短尾人たちとともに跳ぶ。」
船員にはターシシュの短尾人たちも混じっていた。彼らが星間航法の鍵らしいのだが...。
二百年前のこと、オ・グローガンはクリストファーにソーン殺しについて死罪を宣告したが、彼が死ねばみんな消え失せる、という発言が気にかかっていた。
「もし奴を殺したら、おそらく俺達も消えちまう」"狂気の委員会"での審問にて、ひとりが哀れっぽく言った。
「ふむ、順に試していこう」ブラナガンの愛しき義理の息子、ジャヌアリス・オ・グローガンは提案した。「まずは、この憎むべき男を半殺しにしよう。そして、われらの半分が消え失せるかどうかだ」
そして、彼らがクリストファーを半殺しにした時、12人の委員の半数が消滅した。委員たちはパニックに陥った。消え失せたのは姿だけじゃなく、名前や顔かたちの記憶まで消えてしまったのだ。これが、クリストファーが二百年前に殺されず追放となった訳である。しかし、七年の後に彼は戻ってきた。その間に重荷を誰かに委譲したらしい。その人物はブラナガンを含むすべての存在を己が心に保ち、ブラナガン城の一室で眠り続けているのだという。以上がオ・グローガンがロング・ジョンに語った顛末だが、彼のことだから騙ってたんじゃないの?
歴史家タイタスによれば、パラヴァータ防衛軍は非常に好戦的でありもし星間航法の秘密を入手したらあらゆる惑星に攻撃をしかけてくるだろうという。オ・グローガンの命によりゴルコンデ元帥は精神剥離術にかけられ、穴のあいたボートに有尾人の水夫とともに乗せられた。すると、ボートはたちまちクレプシスの海から消え失せたのだ。きっかり六秒後に沈みかけたボートはパラヴァータ防衛軍の豪奢な施設の池に現れる筈だ。完全に正気を失った元帥と有尾人ひとりを乗せてね。
アンジェラの祖父にあたる侍医ギルマーティンは憂いていた。クリストファーがマストに縛られているのに飽きてきたら、もっと暴力的な行動に出るのではないかと。例えば、クリストファーは暴風雨を呼び起こせるのだ。
「彼が嵐を呼ぶのを見たのですか、あるいは誰かから聞いたのですか?」私は医師に尋ねた。
「信頼できる人物から聞いたんだ。もちろん、"終末の日の平衡"が訪れれば、ほかのことなんぞ考えられなくなるがね。」
「"終末の日の平衡"って、何ですか」私は訊いた。
「あんたは歴史家のくせに、"終末の日の平衡"を知らんのか。おそらくは今世紀で最大の歴史的事件であり、哲学的及び終末論的にも最大の事件であるのに。」
私たちは澄みきった夜の大海を進んでいた。だが、奇妙な浮氷(実のとこ、氷じゃない)が突然に漂いだして、気味悪く、身軽く、くらくらするような雰囲気につつまれた。総てが変貌していた。この変化は急激なものじゃなく、かなり微妙だったためなかなか誰も気付かなかったのだ。しかし、今や疑いようもなく私たちは軽くなっていた。そしてまた、気圧も下がっていた。亡霊たちが最初に気付いた(環境の変化を察知するカナリアみたいに繊細なのだ)。先がけはクローネストにいた見張り番の亡霊だ。
「跳んだよ、ホーイ!跳んだよ、ホーイ!」彼は低空から叫んだ(低空の雲の出現も変化の一部だ)。「海がおかしくなったぜ、空もおかしくなったよ。跳んだよ、ホーイ」
「私たちは今や純酸素を呼吸しておるな。充分な濃さはないが。」侍医ルーク・ギルマーティンは言った。
これが、有尾人の力による星間ジャンプだった。海水は塩分を含み、もはやクレプシスではないのだ。哲学者フェアブリッジによれば、動植物はしばしばこの星間ジャンプを行うため、いろんな惑星に同種の動植物が生息しているのだ。人間が跳ぶことは滅多になく、"みどりの想い"という奇妙な副作用を伴う。フェアブリッジがセーターをまくり上げると、腹から緑の葉が生えていた。みんなの身体にも。そして、船体にもまた緑が生い茂っていた。ポルトガル人バルトロモは出自を明かした。ターシシュの有尾人であり、祖父がディーナ・オ・グローガン号に乗っていた代々の海賊だ。クレプシスの海賊船はさかんに星間ジャンプを行い、略奪を繰り返していたのだった。
歴史家タイタスはクレプシスが気に入ったようだ。未だ歴史がないこの惑星の歴史書の執筆を宣言した。タイトルは"クレプシス年代記"。そして、ロング・ジョンもまた、"クレプシス年代記"の執筆を宣言した。
船は無風地帯に入り、暑さが耐え難くなってきた。"ドラゴンと話す男"フロバートによれば、ここはドラゴンの小惑星で、人間はみつけ次第喰われてしまうと言う。鋼鉄の断崖が切り立った島がみつかり、クリストファーは追放された。カシモドも追従する。船は島を離れ、次なる星間ジャンプに入った。
そこは赤と黄に彩られた海だった。空はなく蒼穹は閉ざされていた。あらゆる星へジャンプしたバルトロモもこんな世界ははじめてだ。どこもかしこもびしょびしょで柔らかで半流動状。海と陸地の境もはっきりしない。鈍い色の山々が頭上を覆い、落ち着かず気分が沈んでくる。虚ろな眼の悲しげな人びとが、ひとつの陸地に一万人以上も混みあってぬかるみを歩いていた。そんなところがまた、何百もあるのだ。間違ったジャンプだ。ここはクリストファーの内なる世界、彼の脳の中だった。侍医ギルマーティンは高所に登り、それを確認した。広大な世界にはおびただしい人びとがいる。あらゆる世界の総ての人びとは、確かにクリストファーの中に囚われているのだった。その時、次なるジャンプが訪れ、嵐のごとき楽しげな哄笑とともにクリストファーの世界は消え失せた。ギルマーティンは墜落し、甲板で潰れてしまった。
第十篇:虫喰いの可能性
爪を求めりゃ、蹄鉄無くし
蹄鉄求めりゃ、馬無くし
馬を求めりゃ、乗り手を無くし
乗り手求めりゃ、戦争無くし
戦争求めりゃ、王国無くし
王国求めりゃ、世界を無くし
世界を求めりゃ、宇宙を無くし
総ては蹄鉄の爪無くしたがためよ
船はブラナガン城へと帰還した。ロング・ジョンがもやい綱を結ぼうとすると、既に堅く結ばれている。死んだ筈のギルマーティンも無傷で起きあがってきた。主観的には200メートルの落下だったが、脳内の出来事とすればせいぜい数ミリがいいとこだから、死ぬわけないのだ。ドックマスターは、昨晩この船は港を離れなかったと言う。そして、この船で上演された演劇は素晴らしかったと褒め称え、ロング・ジョンたちが夜の航海で経験した筈の各エピソードをひとつひとつ挙げていく。総てはクリストファーの手になるまやかしだったのか。海岸やオ・グローガン山のなだらかな斜面は、未曾有の観客で大盛況だったらしい。
さて、今朝はそこら中にマスコミの連中や科学者たちが押し寄せてきていた。何事かと尋ねるタッレイラにドックマスターは応えて、
「世界の終わりですよ。ま、世界が終わるって噂に過ぎないかもしれませんけど、まさに今朝それが起こるってみんな信じてますね。他の世界よりちょっぴり早くクレプシスに終末が訪れるらしくって、これは大きなニュースになりそうですよ。"終末の日の平衡"って知られているやつですよ。」
タイタスによれば、今朝はこの地で百以上もの重大な歴史と科学のシンポジウムが開催されるらしい。ロング・ジョンとタッレイラは手分けして出席するよう要請された。また、昨夜のうちにヘンリー王子がクーデターで倒れたとの噂も広まっていた。アンジェラは肯定し、今や自らが支配者となったことを明かす。だが、ロング・ジョンとタッレイラはとりあえずハネムーンに入った。
新婚初夜にあたりソーンも私も未経験だったのだが、お互い(別の)アンチョコ本を持っていたので、何となくはわかったつもり。
「あなたじゃなくって、歴史家タイタスと結婚してたらよかったのに」と、ソーン。「あなたなんか比べものにならないくらい、とびきりの歴史家なのにね。でも(On the other hand)、彼じゃなくあなたと結婚しててよかったわ。あなたを大好きになっちゃったんだもんね。ああ、でもでも(On the third hand)、あなたじゃなくって彼と結婚してたらよかったのに。とってもいいひとみたいだし。」
「三つめの手はなしだよ、ソーン」と私。「三本も手のあるひとなんて、いないからね。」
「あら、いるわよ」楽しげに反駁するソーン。「交易惑星アパテオンの掏摸は、みんな三本持ってるのよ。ほんとよ、愛しいひと。諺になってるもの。」
ソーンも私も、愛情と健全な身体を持ってたのでとてもうまくいった。私の生涯で最も楽しかった二時間だ。営みは完璧にソーンの最後の、て言うかさらなるお楽しみへの申し出(こいつにはびっくりしたね)へと至った。
「ああ、ソーン。それはこの本によれば、不可能だよ。」と私。
「大丈夫。次の改訂版には載るわよ。」言い張るソーン。「さあ、試してみましょうよ。怖がらないで。」
タイタスからのメッセージ・バードが飛び込んできた。ロング・ジョンたちのちょうど真下の部屋で、最も重大な会議が開かれるので、記録するようにとの要請だ。ダクトをこじ開けると、階下での会話が聞こえてきた。会議にあたり、山盛りの"ああ神よなんて葡萄だ!"葡萄と、多量の冷水、紙と鉛筆ペンが用意されていた。ソーンも負けずにウエイターにそっくり同じものを要求する。
「山盛り、どっさり、何ポンドもの、何キロもの、房いっぱいの"ああ神よなんて葡萄だ!"葡萄をお願い。こんな素敵なもの、いくらあっても多すぎるってことはないわ。それから冷水。階下の人たちが注文してたものね。でも、いったい多量の冷水を何に使うつもりなのかしら。お医者さんが、お産のときに多量のお湯を沸かせって言うのと同じね。むかしお母さんに、先生がいっぱい沸かせって言ったお湯は何につかうの?って尋ねたら、即席スープをつくるのよって答えだったわ。お医者さんって、世界中でいちばんの即席スープ呑みなんだって。それから、鉛筆とペンね。ウエイターさん、何百本とお願い。それに紙、たぶん二枚ね。あら、何笑ってるの、愛しいひと。」
階下には、居住世界中から著名な科学者たちが集まりつつあった。アステロイド鳥ピタゴラス。最高の知性と、議論が白熱すると鋭い嘴で論敵の目玉を剔り出す悪癖の持ち主だ。そして、アストローブのオリヴァー・ラウンドヘッド、豊穣世界のデシムス・ゴームレイ、地球からはアロイシャス・シップラップ、ターシシュのシドニア・ソファー、カミロイのアレックス・ブレイヴハート、ダハエのベッキー・ブレイクスティックス。
「どうして、この葡萄には虫がついてないの?」ベッキーは入室するやいなや、白目鋼めいた声を張り上げた。「葡萄はみんな、どっかへやっちゃってよ。林檎には虫が喰ってるし、洋なしにも、スモモにも、スルタナにも、ダハエ椰子にも、キーグにも。ウエイター、ウエイター、あたしには虫が喰ってるかもしれない果物を持ってきて。あたしの意見や可能性を制限されるのは、まっぴら。それに、この部屋に"ああ神よなんて葡萄だ!"葡萄を持ち込むのは御免だわ。あたしの美的感覚を損ねちゃうのよ。出てって。それ持って出てってよね。」
「入ってこい。それ持って入ってこいよ。わたしは大好きだ。黙れよ、女」アステロイド鳥ピタゴラスはがあがあと喚き立てた。
「豚の雄鳥め、あんたこそ黙んなさい!」ベッキーは怒って罵った。「豚の雄鳥野郎!」
「眼に気をつけろ、ベッキー!」アレックス・ブレイブハートが注意した。「無茶苦茶素早いぞ。」
「どうして、あたしがこの中で唯一の女性なのよ?」ベッキーは非難した。「あの馬鹿鳥を放りだして、別な女性を入れて公平化を図りなさい。」
「どうして、わたしがこの中で唯一の非人類なんだよ?」アステロイド鳥ピタゴラスはぎいぎいと喚き立てた。「あの馬鹿ベッキーの大口女を放りだして、別な非人類を入れなよ。」
「ベッキー」オリヴァー・ラウンドヘッドは囁いた。「このアステロイド鳥は雌鳥だ。シンポジウムのメンバーくらい把握しとけよ。」
「オリヴァー」ベッキーは鋭い声で囁いた。「デシムス・ゴームレイは非人類よ。シンポジウムのメンバーくらい把握しときなさいよ、あんたも、あの馬鹿鳥もね。」
アレックス・ブレイブハートは"終末の日の平衡"に意見を述べた。居住世界の中には"遙かな"ターシシュの存在が勘定されていない。ターシシュがわれらが世界の中にあるのか、外にあるのかで、平衡状態への影響が変化するのだ。ターシシュからきたデシムスだが、その在処については答えられない。ターシシュは非科学が支配する世界で、通常の数学や天文学が通用しない世界らしい。
「ウエイター、あたしの林檎に虫が喰ってるわ!」ベッキー・ブレイクスティックスは大声で罵った。「何て非道いこと。ダハエだったら、首が飛ぶところよ!」
「虫の喰っている果物をもってこいとおっしゃったのは、マダム自身じゃないですか」ウエイターは弁解した。
「違う、違う、違うっ!あたしが頼んだのは、虫喰いの可能性よ。本当に虫が喰ってる果物なんて頼んでないわ。総ての選択権をあたしに与えなさいってことと、あたしが総てを選択するってことは一緒じゃないのよ。」
それじゃあ、どうやってターシシュからクレプシスにやってきたんだと問われたデシムスは答える。ターシシュからの旅行はふたつの方法がある。金持ちの方法と、貧乏人の方法だ。後者は単に歩いて(デシムスは貧乏人が旅行するってこと自体ありえないと考えてた)。金持ちは不定期航法。目隠し(正確には視神経を一時的に遮断)され、耳栓(正確には小手術)され、脳に穿刺して方向感覚と時間と論理の感覚を狂わされる。さらに沈静化され、登録なしの無法の船に積み込まれて出発し、自動操縦で(プログラムは出発後に潜在意識でなされるらしい)どうにかしてクレプシスに到着する次第。
この世界は四つの太陽と十七の居住可能な惑星で成り立っている。デシムスの計算では、"終末の日の平衡"は完全に成立していた。しかし、もしこの世界の中に知られざる要素であるターシシュが存在するのなら、均衡は崩れ"終末の日の平衡"は成立しなくなる。彼の計算では、"終末の日の平衡"により人類の居住可能な惑星は生き残れない。ただ、ドラゴンの居住可能な惑星のみが残るのだ。
アロイシャス・シップラップがしゃがれた声で静かに唄う声がした。
ああ、おいらの母さんはドラゴンさ
そしておいらも炎の息を吸ったり吐いたり
でも、あんまり楽しいことじゃない
おいらの友達みんな、息ひきとっちまうから
昼になって、タッレイラはロング・ジョンを誘った。旧い旧い友達を訪ねるのだ。
第十一篇:大いなる愛に応える者は亡く
ブラナガン城の35箇所の扉の内、33箇所には押し掛ける群衆を阻む曝し台があった。無理に入城しようとした人びとがヘンリーにより吊されていたのだ。外からみつけ難い残り二つの扉はワイン倉への扉と眠れる者の間への扉だ。タッレイラとロング・ジョンはワイン倉への扉から入っていった。狭く複雑な通路と壁の隙間を縫って、彼らは眠れる者の間の、壁の隙間まで辿り着いた。部屋に入るとヘンリーの仕掛けた警報装置に引っかかるので、壁にかかった一族のデスマスクを通して中を覗き見するのだ。気が付くと、他のデスマスクの後ろにも結構潜んでる人びとがいるようだ。ソーンは眠れるカシモドに話しかけた。
「カシモド、あたしのちいちゃな頃からのお友達。あたしが来ない間に、新しいコードネームがついたのね。あなたはいまや"蹄鉄の爪"。あなたを求めたら、宇宙が消え失せちゃうのかしら。」
「そう聞いてるね。そうじゃなきゃ、いいんだけど。あたしゃ、むしろ救いたいのに。」
「あなたは盲いてるの?」
「ああ、見えないね。眼は開けらんないし、動けもしない。誰が、あたしが眠っちゃいないって言えるのよ。あたしゃ、謎の存在にされちまったのさ。もしあたしが目覚めたら、宇宙の総ての人たちが消え失せちまう。みんな、あたしの夢の中だけに在るんだからね。もしあたしが死んじまったら、やっぱり宇宙の総ての人たちは消え失せちまう。あたしの死んだ脳味噌の中じゃあ生きられないからね。」
「みんな、あたしのこころの中に隅から隅まで詳しく入ってる。ガイア地球やカミロイやアストローブの何十億もの人びと、他の十四の惑星に住む何百万から何億もの人びと。みんなの頭の総ての毛を知ってる。みんなの皮膚の総ての毛穴を知ってる。みんなのはらわたの総てのバクテリアを知ってる。みんなのからだの総ての細胞を知ってる。みんなのこころの総ての考えを知ってる。」
部屋にヘンリー一党が入ってきた。連れてきた犬が、デスマスクの後ろから次々と人びとを引きずり出していく。ロング・ジョンとタッレイラはうまく見過ごしてもらえたんだけど、九人の記者や科学者たちは捕らえられてしまった。ヘンリーが去り、再び会話を続けるタッレイラとカシモド。彼の余命はいくばくもなく、もってあと一日がいいところらしい。また、この世界にはあとふたり、総てのことがらを脳内に収納できる人物がいるとのこと。"終末の日の平衡"を出し抜くには、彼らの存在が鍵となるのだ。
いつの間にか、また壁の隙間には別の人たちが潜んでいた。ところが、何か仕掛けの働く音がして、ふたりを含めてみんな、鋼の罠に手足と喉元を捕らえられてしまった。交互に締め付ける罠に苦しみながらも、軽口をたたきあうみんな。そこへ聞こえてきたのは、シュッ、トン、シュッ、トンと聞き覚えのある義足の足音。クリストファーが部屋に入ってきたのだ。彼の力でみんなは枷を解かれ、部屋に招き入れられた。ガイア地球の陽気な科学者バンクロフト・ローマル、パラヴァータの女流粒子解析者イサドラ・ラグスレー、アナロスの終末論的代数学の草分けたるクラレンス・ピナクル。
クリストファーはクレプシスの支配者であった時に、惑星連盟から国勢調査を命じられた。とてもそんな暇はなく、彼が考えついた方法は総ての人びとを自らの精神の中に放りこんで勘定するというものだった。これがうまくいったので、今度は残る16の惑星の住人についても試してみたのだ。そして、彼は総ての人びとを己の精神の内部へと吸い込んでしまった。その後に、従者であり広大な精神の持ち主カシモドの精神へと、総てを移したのだった。
われらが宇宙、四つの太陽と十七の居住可能な惑星からなる世界は、三つの焦点を中心に三次元的な楕円球を描いて成立している。その焦点のひとつが人的な要素であり、総てを精神の中に内包する"蹄鉄の爪"ことカシモドその人なのである。彼の死とともにバランスは崩れ、"終末の日の平衡"がわれらが宇宙を全滅へと誘うのだ。これを防ぐ方法は、閉鎖系であるわれらが宇宙に新たな惑星を移動してきて軌道に乗せ、平衡を無効化すること。もしくは新たな人的要素を発見し、カシモドから焦点を移動すること。
ブラナガン城では確かに革命が進行していた。アンジェラ一派が勝利をおさめ、ヘンリーは捕らえられた。女帝を宣言するアンジェラ。豊穣世界のマラブー・ワールドウィンガーが謁見を求め、"終末の日の平衡"の無効化のためターシシュを移動する許しを得る。でも、ターシシュって何処にあるのか?ヘンリーは驢馬に乗せられ、処刑に引き出された。ばらばらに引き裂かれ、アンジェラへの愛を告げて死んだヘンリー。一方、楽しげに眺めているフランコ。何か変だ。そう、二人は入れ替わっていたのだ。ヘンリーは逃亡し、アンジェラは悲嘆にくれるのだった。
第十二篇:この王国の支配者たちと平民たち
ブラナガン城の大ホールには主要人物が総て集まり、晩餐会が催された。女帝アンジェラは河馬に乗って登場し、明日の戴冠式がクレプシスの最初の日であり、クレプシスの歴史の始まりであると宣言するのだった。そして、"終末の日の平衡"について語る。これは二十年前に判明したことであり、第三の焦点カシモドの状態をアストローブで解析した結果、明日こそが彼の寿命の尽きる日なのだ。以来、ガイア地球とアナロスとカミロイとアストローブの科学者たちは解決策を探してきたが、みつからぬまま破滅の前日となってしまった。アンジェラは解決策を披露する。惑星移動家マラブーが率いる四百機の宇宙船に各々有尾人を配し、星間ジャンプで遙かターシシュへと移動させ、伝説の惑星ターシシュそのものをわれらが宇宙へと引っ張ってこようというのだ。また、ピタゴラスやベッキーにも各々秘策があるらしい。一方、パラヴァータのイサドラは密やかに"終末の日の平衡"の無効化のためのもうひとつの解決策を提案した。クレプシス以外の十六の惑星のいずれかを破壊してしまうのだ。
アンジェラはホールに集められた百一人をもって立法議会を成立させた。新生クレプシスのため、法律を制定するのだ。ひとり一票、アンジェラのみ三票で討議の上、殺人と暴力を禁じる法、洞穴の黄金を管理する法、非社会的行動者を収監する法、反逆者ヘンリーを討伐する法等々、順次制定されたが、いずれも重要な管理責任者にはベッキーが立候補していくのだった。次いで、情報公開法が提案され、アンジェラはタッレイラに"口に出せないような罪"の公表を迫ったが、アンジェラ自身の三票に対し、タッレイラ、ロング・ジョン、ターシコアが反対票を投じた。残念そうに、ああ、素晴らしい法案が流れちゃったわ、とアンジェラ。
「晩餐のテーブルに好きなだけついていて下さいね、善き人たちよ。一晩中でも、よろしくてよ。でも、その間は頭をずっと働かせておいてね。あなたがたの大部分は素晴らしい頭脳をお持ちですし、わたしたちクレプシス人には直感がありますから。さあ、どちらが優れているかしら。
クレプシスは二百年の間、海賊の盟約をなしてきました。年代から除かれることとなった二百年、クレプシスは血塗れで鮮やかな伝説に生きてきました。でも、いまやそれは私たちの不名誉となることではありません。この二百年が年代から外されるがために、それは悠久の彼方、おぼろげなものとなりましょう。それは起こらなかったことなのです。よって、もはや年代に数えられぬことと宣言いたします。わたしたちは道化でしたが、おどけの無い道化だったこととなるのです。わたしはこの"クレプシス最初の日"が、一日を通して持ちこたえるよう切に願います。」
第十三篇:終末の日の朝
そして、終末の日の夜が明けた。地震と津波と嵐が起こり、低地は海に沈んでいた。人びとはオ・グローガン山に登って難を逃れようとしていたが、標高は僅か百メートルだ。やがて、不可思議な稲妻が光り、落雷が続いた。ピタゴラスによれば、これは惑星が変移し地軸が歪むことによる現象だが、一部は終末の日そのものによる稲妻だ。それは空に言葉を描くのだった。
ごたごたした空は間近に迫ってみえ、煙と硫黄と小さな岩のかけらでいっぱいだった。地にはいずこにも不可思議なものが溢れていた。世の終わりにはいつもみられるものだ。コルク島牛が喋りだし、預言を告げ始めた。
ガイア地球のバンクロフトは惑星破壊計画を語った。籤により選ばれたのはガイア地球だった。最後の手段として、彼の脳に仕込まれたスイッチによりそれは一瞬でなされるのだ。
土着の蛮人たちが、長槍にヘンリーの生首を刺してやってきた。ヘンリーが反乱に誘ったのだが、天変地異の訪れとともに寝返り、アンジェラのもとへ異変をおさめるよう陳情にきたのだ。アンジェラは半日のうちに収まることを約束した。
さらに激しい変動が訪れた。カミロイのアレックスによれば、マリブーが惑星ごと移動しようとしているのだ。でも、彼が動かしてるのはクレプシスじゃなくターシシュだったんじゃあ?ターシシュはクレプシスのいわば"忘れられた双子"であり、同じ惑星の別の面をみているものだったのだ。これはクリストファーによって企まれたまやかしだった。しかし、これじゃあ"終末の日の平衡"は無効化できない。アストローブのオリヴァーは飛行艇でマリブーを止めに行った。
雷鳴と稲妻に狂喜するピタゴラスは飛び立とうとしたが、アロイシャス・シップラップが慌てて止めるよう叫んだ。"終末の日の平衡"はぺてんだ。そしてそれを企んだのは、アステロイド鳥ピタゴラスだ。彼女は空中高く飛び立つと、自らのぺてんが効を奏するかを見守るのだった。
アンジェラの命を受けたターシシュの奴隷数学者が勝ち誇ったように山上へと駆け上がってきた。その時、En-Arche鐘楼塔の鐘の音が響き渡った。カシモドの弔いの鐘であり、終末を知らせる音だ。タッレイラによれば、"En-Arche"はむしろ始まりの意であり、そもそもはクリストファーによって建てられたものなのだが。クリストファーはわずかな間、時を止めた。鐘があと三つ鳴り終えた時、カシモドの命も尽きるのだ。みんな恐怖に震えている。アンジェラはしつこくタッレイラから"口に出せないような罪"を聞き出そうとするが、死んだら教えたげるって応えるタッレイラ。そして、誰も死ななくてすむぞって叫ぶターシシュの奴隷数学者。彼の計算によれば、"終末の日の平衡"から"終末"を取り除くことが可能なのだ。オリヴァーはうまくマリブーと接触できたようで、惑星移動による震撼は収まりつつあった。
しかし、終末の日の霊力は引き下がらなかった。稲妻が奴隷数学者を打ち倒し、計算が書き付けられた紙は燃えあがる。クリストファーの力も弱り、ひとつ目の鐘が鳴った。アロイシャスは燃え残りを取り上げ、計算を始めた。怒れる終末の日の霊力はアロイシャスを狙う。計算を終え、勝利を宣言するアロイシャスの頭は燃えあがった。その光景に芸術を感じ狂喜するターシコア。ふたつ目の鐘が鳴った。「やったぞ、終末の日よ、立ち去れ!」と叫ぶアロイシャス。怒り狂う終末の日の霊力は、アロイシャスを狙って最後の稲妻を放つ。さて、みんなの運命や如何に...。
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以上、クレプシス年代記の粗筋である。粗筋といっても、原稿用紙にして80枚以上の量であり、いったい誰が読んでくれるのだろうと不安になる。また、雰囲気を伝えるため随所に抄訳を挿入してみたが、拙いところはご容赦願いたい。なお、最後がヒキをつくったようになっているが、実は原文でもこのように終わっているのだ。
さて、1983年にAceからペーパーバックとして出版された本作は、これまで様々な作品の舞台として言及されてきた、居住世界シリーズ(The Humanly Inhabited Universe)の集大成ともいえる長編である。アストローブ、カミロイ、パラヴァータ、アフソニア(豊穣世界)、アナロス、スコカムチャック、ダハエ、ホーキーの星などなど、おなじみの惑星からの登場人物が活躍し、ガイア地球からは研究所シリーズのレギュラーであるアロイシャス・シップラップが登場する。ファンサービスもたっぷり満載の作品だ。
と言ってもラファティのこと、例によって一筋縄ではいかない作品である。グロテスクで極彩色に彩られた海の惑星クレプシス。そこは海賊惑星として粗暴で奇矯な住人たちが跋扈している。クレプシスには歴史がないと言われており、若く野心に満ちた歴史家のロング・ジョンはその謎を探りにきたのだ。空飛ぶ帆船が海賊旗を掲げて赤い惑星と重なる表紙といい、導入部といい、SFとロマンの香りが漂ってくる。ところが、やがて亡霊やファントムたちが登場し、幻影とまやかしが物語を包み込んでくる。インナースペースへのジャンプというニュー・ウェーブ風(ちょっと違うような気もするが)の展開もまた、すぐにひっくり返されてしまったり。どこまでが現実で、どこからが幻影か判らない不安感はディックをも彷彿とさせる。そして、この世界をそっくりそのままひとりの人間の精神に内在させてしまうってアイデアはどこか東洋的でもある。
作品全体の雰囲気はファンなら慣れ親しんだ短編群とも似通っており、結構読みやすい。例えば、ブラナガン城で開催される奴隷市や公開処刑の光景には、残酷さとユーモアが入り混じったラファティ独特のイメージが過剰で派手やかに描写される。どうでもいいような登場人物まで総て名前を列挙し説明を添えるのも、無意味なディテイルを執拗に描き込むのもいつものラファティ節である。様々な謎と伏線が散りばめられ、ご都合主義的に秘密を握る人物が現れては解説してくれるんだけど、やっぱり大部分はなんのことやら判らない。ひっぱるだけひっぱっておいて、あさっての方向へすべり落としてしまう手際は、いつもながら歯がゆくも妙な不条理感へと誘ってくれる。完成した物語を読み終えたカタルシスとは縁遠い読後感。結局、"終末の日の平衡"(Doomsday Equationをとりあえずこう訳したが、equationはむしろ"方程式"とするべきかも。)とは何だったのか?なんでカシモドが居住世界を構成する三つの焦点のひとつになるのか?どうやったら、全世界を精神の中に放りこめるのか?クレプシスに歴史がないってのはどうして?ピタゴラスのぺてんって、何をどうやったの?失われた双子ってどういう現象?亡霊を再び殺すって意味あるの?等々。頭上をはてなマークが飛び交い、それらしい説明を読み返しては、やっぱり解らんって頭をかかえ...。
何やら褒めてるのか貶しているのかわからない支離滅裂な文章となってきたが、ともかくも読んでる間はものすごく楽しかったことは確かである。万人受けはしないにしても、日本のラファティ・ファンにとってはお勧めできる作品と思うのだ。是非とも翻訳が出ることを切に願う次第である。
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