海外の文献でラファティがいかに扱われているかを紹介するコーナーです。
The Dictionary of Science Fiction Places
アメリカの作家。'71年に退職するまで電気工業系の仕事をしていた。40歳代になってから創作をはじめ、'60年に最初のSF"氷河来たる"を雑誌The Original Science Fiction Storiesに発表した。続く25年以上にわたり(70歳で引退したとのこと)、たくさんの作品を残した。短編200作以上と多くの長編が出版されている。熱心な小出版社(small press)の活動により'80年代後半に多くの出版(大部分は短編集)をみたが、まだまだ未出版の原稿が残っているらしい(一部はThe Complete Book of Science Fiction and Fantasy Lists, '83, Malcolm Edwards and Maxim Jakubowskiにて紹介)。
SFとファンタジーの領域におけるその独自性と価値は疑いようもない作家ラファティが、このように明らかに軽視されているのには理由がある。まず第一に、ラファティが創作の上で、SFやファンタジー業界の批評や商業的な方向性に対しほとんど関心を払わないことが挙げられる。まったく、彼はほら話(tall tales)の書き手であり、漫画作家であり、本質的に喋るように書く作家なのだ。彼の綴る総ての言葉(および意図的に綴らなかった言葉)には、保守的なカトリックくささが浸透している。彼は古代の神話をくまなく探求し、新たな神話を軽薄に創造してきた。神と悪魔の両者のたくらみに曝された世界観を楽しませてくれるが、時にプロットは破綻する。彼を本質的に陽気と評するひともあれば、孤独で厳格なモラリストととらえる見方もある。テクニックは独創的だが、いつも急ごしらえでぞんざいな荘厳性へと突っ込んでいってしまう。様々なレトリック的な語り口で話を展開していく技術は明らかなのだが、時にバロック的なけばけばしさに息を詰まらされる。'73に"素顔のユリーマ"でヒューゴー賞短編部門を受賞し、'60年代から'70年代にかけて部分的に(顧みれば関連はごくわずかだったが)ニュー・ウェーブを通過し、漠然と、なんか風変わりだが主要な作家のひとりとみなされた。ラファティの創作生活にとって不幸なことに、この名声は作品の奇矯性をより強調してゆく結果となったように思われる。この失敗が彼の通常作品へと及ぼした影響についての最終的な判定は、彼の全作品の一貫した刊行を待たねばならない。多くの作品がまとめられていないのだが、全体をざっとみわたせるような作品集を幾つか編纂している。(訳注・以下、短編集の列挙の部分は省略します。)
ラファティの最初の長編、パスト・マスター('68)、The Reefs of Earth('68)、Space Chantey('68)の3作は何ヶ月かのうちに相次いで刊行され、反響をまきおこした。パストマスターの出版前の称賛(ニュー・ウェーブ作家のサミュエル・R・ディレイニー、ロジャー・ゼラズニイ、ハーラン・エリスンによる賛辞)には、彼の作品が最初に与えたインパクトが表現されていた。そして、アメリカのニュー・ウェーブはより権威打破的な調子が強かったとはいえ、そのどこか冷笑的な雰囲気がラファティ(45歳からのジャンルへの参入は、その成熟性の予兆ととらえられた)のような成熟した書き手に対してささえとなったのだ。パスト・マスターでは、トマス・モア卿が惑星アストローブに配される。彼は世界大統領になるよう企まれ、再び殉教者の死をこうむることとなる。通俗的な嘲笑を排して、ユートピアと人生の対比が提示されている。Space Chanteyはホーマーのオディッセイをスペース・オペラに語りなおしたもの。たいへん陽気な内容で、(ラファティお得意の)古代の叙事詩の世界をハチャメチャで神話が満ちあふれた未来のおとぎの世界に投げ込んで展開させた代表的な作品である。The Reefs of Earth(ラファティが最初に完成させた長編)では、異星人の子供たちがでしゃばって地球上から全人類を抹殺しようとし、失敗する。より複雑なFourth Mansions('69)(おそらくラファティの最も首尾一貫した小説)では、ラファティの最も優れた作品の根底にみられる傾向が明快に現されている。主人公(たち)は、善きものと邪悪なるものとがたくらむことがら--この結果が来るべき現実の道徳性を決定する--についての、はでやかで不可解で夢のような手がかりのパターンを発見し、天使の側から楽しく(もしくは混乱しつつ)闘争に参入する。
ラファティの多くの作品にまたがって同一のキャラが登場し、ある作品から別の作品へとあちこちにプロットの断片が散らばってみうけられるのだが、唯一明らかなシリーズ作品--アルゴ神話--が存在する。(訳注・作品の列挙の部分は省略します。)アルゴ神話では、イアソン(Jason)に従うアルゴ号の乗員たちの転生である第二次世界大戦時の仲間たちが、邪悪なるものとの長く神話に満ちあふれた戦闘へと関わっていく様が描れている。後の作品、イースターワインに到着('71)では、コンピュータ--他の諸作でも活躍(訳注・当然、エピクトと研究所シリーズのこと)--の生涯が語られ、混乱にはじまり支離滅裂に終わる。The Three Armageddons of Enniscorthy Sweeney--Apocalypses('77)の第2編--では、在り得べき別の世界で、オペラの包括的な力が戦争を終結させる。Dotty('90)は、直接はアルゴ神話を構成する作品ではなく、表面上はSFやファンタジーですらないが、わずか96ページの中に"現世"とSFとファンタジーとイアソンとアルゴ号の乗員たちとその他もろもろを総て包括しているのだ。現段階ではラファティの広大な世界の総てを詳述するのは不可能である。まだこれからも来る作品があるだろうから。
(訳注・以下、その他の作品の列挙の部分は省略します。)
なお、主項目での説明の他、"cities"では巨大都市における非個人性への言及として"意志と壁紙としての世界"がバラードの"Build Up"とともに挙げられています。"end of the world"では黙示録への言及として"Apocalypses"が、"fantastic voyages"及び"heroes"ではギリシャ神話などの英雄神話からの影響として"Space Chantey"が、"intelligence"では天才を扱った作品への言及として"素顔のユリーマが"、"Messiahs"及び"reincarnation"では"パストマスター"が、"perception"では知覚の変容として"せまい谷"が、"linguistics"では諸作品が挙げられています。"humour"の項目ではさすがに8行ほどがさかれており、内容は以下の通り。
(訳注・'60年代後半にユーモアSFに皮肉とブラック・ユーモアの傾向が深まってきたことを踏まえて)、ラファティはまったく異なった方向で、風変わり(offbeat)だった。ラファティの奇怪で半ば超現実的なユーモアは、彼の操る言語の豊穣な特異性に強く依存していた。彼のはでやかなほら話を道徳的に厳格ととらえるむきもあれば、空虚な遊戯として片づけられることもある。彼の作品は通常のジャンルSFの枠に収まりきれず、どこかSFとファンタジーの間を漂っている。
The Encyclopedia of Fantasy
John Clute and John Grant ed. 1999, St. Martin's Griffin, New York
(訳注・最初の作家説明は上記とほぼ同じなので省略)
初期の作品は(一部がThe Early LaffertyとThe Early Lafferty IIに収録)手法や内容においてあんまり風変わりじゃなかったのだが、すぐにラファティのユニークな語り口が聞こえてくるようになった。それらは、60年代初頭のSF雑誌に掲載された。
ラファティを風変わりで下品なSF作家として扱うことは、彼の天才性を誤解することとなる。彼の作品は既存のどのジャンルにあてはめるのも困難である。最良の作品群が(広義の)ファンタジーとして読まれがちであるとしても。むしろ、ラファティを特異な文学的類似性もしくは文学的な影響という見地からとらえてみる方が、より意味のあることであろう。彼はカトリック教徒であり、その作品は多くの点でG・K・チェスタートン(その華麗さは、しばしば薄っぺらなシュールレアリズムへと豹変してしまう)に類似する。だが、最も比較されうる作家はおそらくFlann O'Brienだろう。彼の"第三の警官", '67は、狂気が織りなす日常がたやすく大げさなファンタジーと無造作な解決へと至る。その"説明"の構造は一部が、ラファティの作品ではより顕著にみられるように、冷酷かつ愉悦に満ちたように科学とSFの文法をひっかきまわすのだ。
ラファティの作品であることは、その文章からまず判る。彼の散文はなんなくパラドックスの中に耽っており、沸き溢れて装飾過剰にみられる。その思想の輪郭は、まったく自然にみえる逸脱性から、ほら話の領域を経て、ほとんど解釈不能な飛躍と跳躍をみせ至高の域へと達するのである。だが、最も重要な彼の言語の試金石となることは、それが普通の話しことばをベースとしているという点である。そこから、ありとあらゆるものをつむぎ出し、おそらくより正確にいえば、飛び跳ねさせているのだ。
ラファティ作品のキャラはこの言語に見合っている。多くの主人公たちはアメリカのブルーカラー労働者である。例えかれらがいかにべらぼうな人生を送っていることが判ったとしても。また、子供たちの無垢と怪物性が著される。実際に、Reefs of Earthや日の当たるジニーに登場する子供たちは、いくら愛嬌があっても、疑いようもなく怪物である。大人ともなればこれらの主人公たちは、堕落者と非堕落者の宇宙規模の闘争における(神に似た)敵対する者たちの代理人をつとめ、もしくは事実上具現化した形をとるようになる。Fourth Mansions、Not to Mension Camels、Devil is Deadシリーズ等においてである。(訳注・Devil is Deadシリーズ作の列挙は略)
Past Masterではトマス・モア卿を主人公とし、自身の昏いジョークである"ユートピア"がグロテスクな社会のモデルとして適応されている世界に転移されてしまう。Space Chanteyはホーマーのオディッセイの語りなおし。Where Have You Been, Sandaliotis? --Apocalypses('77)の第2編--はフォート派の世界でサルデーニャと海岸で続く地中海への帰還を描いた夢のような作品である。(訳注・以下、作品列挙は略)
ラファティ同様に読者の期待を裏切っていくという点で、同時代の作家で唯一挙げられるのがアヴラム・デイヴィッドスンである。ほとんどの現代のSFやファンタジーの作家たちと異なり、両者は伝統的な宗教に憑かれ、信仰している。ラファティはローマ・カトリックに、デイヴィッドスンはユダヤ教に。彼らの全貌を知った後でなければ、その一部を理解しようとするには能わないのだ。
The Dictionary of Science Fiction Places
Brian Stableford, 1999, The Wonderland Press
SFにでてくるいろんな惑星や都市、場所の事典。ラファティではAnnals of Klepsisよりクレプシス、山上の蛙よりパラヴァータ、九百人のお祖母さんよりプロアヴィタス、パストマスターよりアストローブ、カミロイ人シリーズよりカミロイ、スナッフルズよりベロータと、けっこう載っている。内容的にはわりと詳しく書いてあるがネタばれもあり未読者には勧められない(ラファティ・ファンで上記作品の未読者がこの本を先に読むことがあるとは思えないが)。アヴラム・デイヴィッドスンの"Masters of the Maze"、David Bunchの"Moderan"、マイケル・コーニイの"Syzygy"、カットナーの"Fury"など、未訳(と思う)で名前のみ知られてる作品の紹介もけっこうあったりする。
ラファティ作品への賛辞
(どの作品に対するものか不明な賛辞が多いですが、まあ同じようなもんでしょう。)
ハーラン・エリスン
こいつは奔馬性狂気の傑作だ。音響と色彩にざぶりと浸っている。
彼の描き出す総てにイマジネーションの嵐が吹き荒れている。そして、私たちは狂人ラファティによる特別な魔法を味わうほかないのだ。
テリー・カー
R・A・ラファティはSF界で最も独創的な作家のひとりだ。明らかな意図のもとに、通常の小説の制約をねじ曲げ破壊する。真剣な問題から愉しみをかきたて、グロテスクさを越えてある種の民族的リリシズムに突き進む。これら総てに加えて、ここ何年かで愉しめたうち最も奔放な想像力がある。
サミュエル・R・ディレイニー
ラファティの狂気は、悪夢とともに散りばめられている。魔女、ラザラス・ライオン、ヒドラ、ポルシェ・パンサー、決して失敗しないプログラム殺人機械、そして戯画化された暗黒の塊。ブラック・コメディだって?パスト・マスターには、ユーモアが明らかに紫外線の領域へと達したところがあるのだ。
ポール・アンダースン
野蛮で、微妙で、悪魔的で、天使的で、陽気で、悲劇的で、詩的で、雷鳴のごとく轟くメロドラマで、人間の精神の深みへの探求である。R・A・ラファティはいつもユニークな独自の男だ。
ロジャー・ゼラズニイ
私は座ったまま読み続け、本を置くことができなかった。ラファティには眼球の後ろに火をつけるパワーがある。興奮があり、イルミネーションがあり、体験にともなう確かな歓びがある。彼は素晴らしい。
フレッド・セイバーヘーゲン
ラファティの作品は、フィリップ・K・ディックのものと同じく、他のどの作家の作品とも紛らわしいことはない。
ジュディス・メリル
シリアスな哲学的かつ思弁的な作品が、かくも生彩に富み叙情的に描かれたことは小さな奇蹟である。幸いにも、この作品を分類することはできない。SFや純然たるファンタジー、詩篇、歴史小説のいずれの要素も備え、鋭い批評性と素晴らしい優しさを併せ持ち、深い真剣さと堪え切れぬ楽しさがあり、深遠な象徴性と勇気ある現実主義が(予期せず)交互に現れる。一級の思弁的な作品である。
SFリーダーズ・ガイド
R・A・ラファティは憑かれている−狂人であり、野蛮な才能をもって。ラファティの世界はいつも心地よいわけではない。言葉の意味を微妙にねじることに特に喜びをもっているからだ。彼の世界はたいてい愉快で不条理だ。しばしばシャボンに突き立てるピンでいっぱいで、こいつは僕らが神聖とみなしてるものをはじけさす。ラファティは楽しく、洗練され、そしてまったく正気じゃない。